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JR山手線 『ウ・内回り』の日常

 まずい。急げ。走れ。止まるな。俺。
「ハッ、ハッ、スゥー! ハッ、ハッ、スゥー!」
 クソッ! 十億だぞ! 十億!
「ハッ、ハッ、スゥー! ハッ、オェ、カハッ!」
 クソッ! 俺の全てを! 犠牲にしてきた! 交渉が! やっと実るって日に! 寝坊だと? バカか俺は! あの頑固ジジイ、遅刻なんぞしたら、パーにするに決まってる! 必ず間に合う。アレに乗れば。まだ間に合う!

 歩道橋を駆け降りたスーツ男は渋谷駅西口のJR山手線改札をぶっちぎり、『ウ・内回り』と案内が掲げられた階段を駆け上がる。
 JR山手線には3本のレールがある。東京駅から品川、渋谷方面へと走る11両編成の『外回り』。その逆をゆく『内回り』。そして1725両編成の『ウ・内回り』―― 正式名称『ウロボロス・内回り』。1秒たりとも止まることのない車両が一周34.5kmのレールを隙間なく埋め尽くす、ひと続きの狂気。3分間隔のダイヤすら ”待つ” ことが出来なくなったセワシイ乗客に対する、都政とJRのアンサー。なお無謀な資金援助により財政破綻した東京都は埼玉県に併合され、『ウ・外回り』は未着工のままである。
「ハー、ハー」
 ホームに着いた男は、慎重に乗車タイミングを見計らう。目と鼻の先でゴウゴウと音を立て続ける車両の側面には、ドアはおろか壁すら存在しない。
「テイッ!」
 男は真新しいかばんを胸に抱え、車内へ飛び込んだ。着地。床一面に敷かれた高速ベルトロールに足をすくわれ転倒、肩と側頭部を強打。支柱にしがみついて立ち上がり、進行方向へと走り出す。時速60kmで進む車両本体と、時速60kmで動く車内の床。その上を時速15kmで走れば時速135kmに達するという説が支配的である。故に男は走る。前方に会社員。追い越しレーンに移ってサイド・バイ・サイドから一気に抜き去ると、スマホをいじる ”ながら” 学生の背中が目前に迫る。
「セイッ!」
 危険タックル。転落した学生の悲鳴が遠のく。マナー違反者への制裁は合法だ。
 乗車から2分。天井モニタに『五反田』の文字。わずか6秒の下車チャンス。落命の恐怖。母が買ってくれた就活スーツが破れる不安。しかし男は腹を括る。20社受けて、やっと掴んだ最終面接。
「ヤーッ!」

「ハーッ! ハーッ!」
 五反田からの乗車は厄介。だが俺ならやれる。待ってろ十億。
 ……今だ!
「ヨッ!」「ヤーッ!」
 ちょ、ガキ、飛んできやがっ――

 衝突、鈍い音、闇。

 ウロボロスは回り続ける。

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