メルヒェンの獣
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ルドルフは血まみれの妻を胸に抱えながら、ベルリンの冬夜を風の如く駆け抜ける。敵はひとりとは限らない。アパートが並ぶ薄暗い路地から屋根へ跳躍し、屋根から屋根へ飛び移り、高架に敷かれた鉄道レールを突っ走る。人間の姿で出せる力などたかが知れているが、四つ足の獣では妻を運べない。背後を確かめながら高架を降り、一足飛びで川を越えると、大学病院はもう目の前だった。深夜に急いで処置してくれそうな近場の施設。ルドルフには選択肢が無かった。
「助けてくれ! 妻が撃たれた!」
しんとした救急外来にルドルフの声が響くと、居合わせた医師がすぐに応じた。
「そのまま! 動かずに。診させてもらうよ……胸部から出血、意識消失。妊娠しているね? 何週目?」
「30か、それくらいだ」
「よし、ではこちらに。そっとだ」
妻を受け取った医師が、遅れてやってきたふたりの看護師と息を合わせてストレッチャーに乗せた。
「第1オペ室へ! 私が執刀する。産科に連絡しろ!」
医師が指示を飛ばすと、ストレッチャーが動き出した。
「おいヘルガ、病院だぞ、助かるからな!」
ルドルフはストレッチャーと併走しながら妻に呼びかけ、青白い手を握りしめる。
「乳酸リンゲル液を急速静注。産科医と連絡は」
「取れました。向かっています」
「なあ、赤ん坊は無事なのか」
「処置の邪魔です。離れて」
機材を転がしてきた看護師が搬送に加わり、ルドルフは後ろに追いやられた。
「脈拍微弱。血圧、75の40」
「胎児の心拍は」
「ま、毎分280」
心拍計を睨んでいた看護師が困惑したような顔で答えた。
「280? ありえんやり直せ!」
「おい無事なのか!」
ルドルフは声を荒げた。眉を寄せた医師が、妻と看護師たちを先に行かせ、ルドルフの前に立ち塞がった。
「さあ、この先は立ち入り禁止だ。受付で手続きを」
医師が言いながら、近くにいたスタッフに目配せした。
「だめだ、俺がそばについてやらないと」
構わず奥に進もうと足を踏み出すが、医師の細い体に阻止される。
「落ち着いて。落ち着きなさい。きみ、名前は?」
ルドルフは一歩退がり、黙って医師を睨んだ。
「彼女の傷は銃によるものだね?」
「最初にそう言ったろう」
「となるとね、警察を呼ぶ決まりなんだ」
「警察? 警察ごときに守れるわけがない!」
「守る? いいかい、とにかく警察によく事情を説明するんだ。私も最善を尽くすと約束しよう。彼女にも、赤ん坊にも。わかったね?」
ルドルフは同意も反意も示さず、鋭い眼光を医師に向け続けた。医師が念を押すように頷き、背を向けて足早に立ち去っても、ルドルフはその場を動こうとしなかった。
◆
大学病院で大量殺人事件
(ベルリン・ポスト紙)
21日未明、ベルリン州 X大学病院のオペ室で、医療従事者7名と患者の女性1名が倒れているのを同病院の職員が発見した。
8名の頭部には鈍器で殴られたような傷があり、約1時間後に全員の死亡が確認された。ベルリン州警察は殺人事件と断定し、捜査を開始した。
捜査関係者によると、被害者である患者の女性は、夫を名乗る男に連れられて深夜に救急外来を訪れ、緊急手術を受けている最中だった。夫を名乗る男は事件発生の前後に現場から立ち去っており、州警察は重要参考人として捜索している。
◆
病院を飛び出したルドルフは目立たぬよう人間の姿のまま、ベルリンから西へと伸びるアウトバーンに沿って朝まで走り続けた。目指す大農場はニーダーザクセン州ゴスラーの山沿いにある。ルドルフはゴスラーの案内標識が見えたところで進路を南に変え、人目につかないハルツ山地の森に入った。雪に覆われた森をしばらく進んでから足を止め、服を脱ぎ捨て、ひとつ深呼吸し、獣の力を解放する。瞬く間に銀色の巨狼へと姿を変えたルドルフは四つの脚で大地を蹴り、白い森の中をいかなる獣にも勝る速さで疾駆した。
木々の間隙を縫って山裾を突き進んでいると、右手の眼下に広大な農場が見えてきた。ルドルフは鼻に皺を寄せてひとつ唸り、スピードをさらに上げた。目標の農場主が住む邸宅は、かつて一度だけ訪れたときと変わらず、農夫に扮した私兵たちによって守られていた。邸宅まで残り100メートルほどになったところで斜面をくだり、矢のような速さで突進する。あくびをしながら太陽を眺めている男に狙いを定め、気づかれるよりも早く飛びかかり、爪で下顎をえぐり飛ばして黙らせた。巡回してきたもうひとりは戸惑いの表情で腰に手をのばしたが、ルドルフは銃を抜く暇さえ与えずに喉笛を引き裂いた。
周囲に何も無い大農場。救うべき命などひとつも無い敵地。ルドルフは獣の実力を存分に行使した。
「なんで狼なんかがよ!」
「さっさと殺せ!」
「クソ! 当たらねぇ!」
「馬鹿野郎! こっちを撃つな!」
続々と現れる私兵たちが口々に叫んで発砲するが、ルドルフの速さに敵う人間などいない。縦横無尽に飛び回って翻弄し、目に留まった者を八つ裂きにする。薄雪を赤く染めながら邸宅の庭まで進むと、農場主の老婆が巨大なガーデンテーブルでひとり、朝食をとっていた。老婆は驚く様子もなく食事を続けながら、残りの手下がすべて殺される光景を黙って眺めていた。
人間の姿に戻ったルドルフは老婆に詰め寄り、片手でテーブルを跳ね除けた。老婆がナプキンを摘み、ゆっくりと口を拭ってから、真っ赤な瞳で見上げてきた。
「ヘルガの死は残念だわ。私も望んでいなかった。でも撃ったのはまだ子供で、悪気はないのよ。生い立ちのせいで時々、道に迷うこともあるけれど」
「貴様らの話はどうでもいい。俺の子は」
「子犬は好きよ。育ての親に従順なところが特にね。私も待ちわびていたのよ? あなたに断られたあの日から、ずっと」
「答えろ!」
「もちろん会わせてあげる。あなたが考え直すなら」
「ふざけるな! 誰が協力するか。童話に見立てて暗殺だのテロルだのと、狂人どもが」
ルドルフは血肉混じりの唾を地面に吐き捨てた。老婆が涼しい顔のまま口の端を吊り上げた。
「世間はその狂人たちの噂で持ちきりよ? 肝心なのは、大衆にとって馴染みの深い筋書き。それに、ひとつひとつの計画を遂げるための実力。組織が人間強化技術を手に入れた今なら、理想を現実にできる。権力にすり潰されながらこそこそと活動する時代は終わったの」
「その技術とやらで頭までやられたか? 貴様らが世の中から支持されるとでも?」
「ええ。遠からず」
老婆が、さも当然といった顔で頷いた。
「みんなね、外では綺麗ごとを並べて非難しておきながら、心の中で願っているのよ。腐ったリンゴを排除しろ。我が国ドイツはもっと強く、もっと正しくあるべきだ、ってね。それを誰がリードする? 政治家? 企業家? だめだめ。奴らの中にこそ、見た目には美しく赤い頬をしている毒リンゴがたくさん紛れているんだもの」
「勝手にやれ。俺には関係ない。子を返せ」
「関係あるのよ。前にも言ったでしょう? あなたの父親のこと。組織には……革命にはシンボルが必要なの。いくら機械の力を借りて強くなろうとも、だめ。まがいもので人の心を動かすには限界がある。だからあなたなの。古代から現在に至るまで人の心を惹きつけてやまないヴェアヴォルフ。生ける伝説の末裔こそが相応しい」
「何がシンボルだ。クソでも据えておけ」
「なら、あなたの息子にやってもらうしかない。ああ、元気な男の子よ。人狼はどう育つのか、今から私も楽しみだわ。名付け親は私でいいのかしら?」
「貴様ぁ! 四肢を噛み砕かれて同じことが言えるか!?」
ルドルフは語気鋭く言い放ち、狼に姿を変えた。瞬間、背中に烈しい衝撃を与えられ、踏ん張ることもままならず突っ伏し、呼吸が止まった。遅れて銃声が轟き、老婆の深い溜息が聞こえた。ルドルフは四肢に力を込めて立ち上がろうとしたが、叶わなかった。鉛弾ひとつに己の治癒力が負けるなど、ルドルフには考えられなかった。
ルドルフは、狼の姿のまま息絶えた。
◆
農場の風下、2000メートル離れた小高い丘の上から精密射撃を成功させたヴァイオレットは、伏射姿勢のまま硝煙の臭いを胸いっぱいに吸い込んだ。隣で胡坐をかいて暇そうに雪いじりをしていた弟のコーエンが、
「おばばに叱られるね」
と、いまだ声変わりの完成しない声で素っ気なく言った。
「親犬は殺すべき。何が生ける伝説よ、あっけない」
ヴァイオレットは言い捨てた。動かなくなった人狼をライフルスコープ越しに鑑賞していると、人狼の奥に座っていた老婆が立ち上がった。老婆の赤い瞳がゆっくりと動き、肉眼では見えるはずのないヴァイオレットを見据え、口を動かした。
「2度目よ、あなたたち。こちらに来なさい」
コーエンが老婆の口調で言ってから、
「だってさ」
と付け加え、肩をすくめた。
ヴァイオレットは舌打ちし、ライフルスコープと人工視覚のリンクをまばたき3回で解除した。
「もう ”耳” は使わなくていい。帰るわよ」
言いながら何時間かぶりに立ち上がり、体をほぐし、自分の背丈とさほど変わらぬ長さの狙撃銃を肩に担ぐ。
「どこへ?」
「組織のセーフハウスは無理ね。ベルリンの隠れ家にでも行こうかしら」
「おばば、呼んでたよ?」
「無視よ、無視」
「そっか。お腹すいたね」
コーエンが立ち上がってリュックを背負いなおし、並べてあった小さな雪だるまをひとつ残らず踏み壊した。
殺風景な丘をしばらく歩いて山道に出ると、降りたときと同じ場所に白のクラシックカーが止まっていた。
「置いていかれるかと思ったわ」
後部座席に乗り込んだヴァイオレットは、大きく息を吐きながらシートに身をゆだねた。バックミラーに映る男爵が、黒い丸メガネを直しながら歯を剥いて笑った。
「きみたちを捨てた両親と一緒にしないでくれたまえ。さあ、お腹が空いたろう」
男爵が身をよじり、後部座席にパンを差し出した。隣に座ったコーエンが救われたような顔で受け取り、小さな口でかじりついた。男爵は満足そうに頷きながらエンジンをかけて、車を発進させた。
「姉さんも食べなよ」
コーエンがパンをちぎり、心配そうな目で渡そうとした。ヴァイオレットは首を横に振った。
「いらない」
「食べないと育たないぞ?」
前方から聞こえた声を、ヴァイオレットは無視した。
「で? きみたちの予想は当たったのかい」
「ええ。愚かな親犬がのこのこと」
「特製の弾丸は効いたかな」
「どうかしら。1発で仕留めたから」
ヴァイオレットはポケットから取り出した空薬莢を助手席にほうった。
「さすが鉄砲自慢。その ”目” を与えた我輩も鼻が高いよ。婆さんの怒った顔はさぞかし見ものだったろうね」
「いつもの無表情よ。それにあたしが撃たなきゃ殺されていた」
「それはどうかな」
「……あなたは怒らないの?」
ヴァイオレットは、窓の外を眺めながらぽつりと言った。男爵が小さく笑った。
「怒るなら、最初から深夜のドライブなんかに付き合わないね」
「でも組織には、あの狼が必要だったんでしょ?」
コーエンがパンで頬を膨らませながら言った。
「そう。筋金入りの古参たちはずっと待ち望んでいたのだよ。一年生の我輩たちと目指す世界は同じでも、手段が違う。我輩はね、我輩の ”子供たち” の願いを第一にしたい。人狼なんかよりも、きみたちの方がずっと素晴らしい」
「我輩の子供たち、って。おばばにべったりの怪力女はどうなのよ」
口を挟んだヴァイオレットがバックミラーを睨むと、男爵は微笑みながら頷いた。
「あの子の願いは婆さんの役に立つことだからね。そうだ、会ったら謝っておくんだよ。きみたちが子犬の母親を撃ってしまったせいで、あの子は罪もない病院の関係者を7人も殺さねばならなかった」
「頼んでいないわ」
ヴァイオレットは鼻で笑った。
「ぼくたちどうなるのかなあ」
コーエンが他人事のように呟いた。
「大丈夫! 結果だけ見れば獰猛な父親と裏切り者の母親は死んで、可愛い子犬が手に入った。組織の怖い連中も許してくれるさ。ついでにひとり残らず子煩悩になってくれりゃあいいんだがね」
男爵は冗談めかして答えたあと、鼻歌を歌いはじめた。ヴァイオレットは下手糞な鼻歌をやめさせずに目を閉じ、深い眠りに落ちていった。
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生まれて初めて高速鉄道に乗ったルッツは車窓に頭をあずけ、次から次へと飛び去る景色を眺め続けた。暗いトンネルを通るたびに自分の青い瞳と視線が合う。隣に座るヒルダは乗車したときの姿勢のまま、背筋を伸ばして前を見つめていた。
ゴスラー駅で乗車してから3時間。ベルリン中央駅のホームに降りた途端、ルッツは大量の雑音と臭いに軽いめまいを覚えた。農場で繰り返した嗅覚訓練とは比べ物にならない。狼の状態で鼻が馬鹿にならないよう、慣らしておく必要があった。
「……ルッツ?」
色白の少年がおずおずと声をかけてきた。コーエンだった。
「やあコーエン」
片手を上げて応じると、コーエンは胸に手をあて、大袈裟に安堵のポーズをとった。
「ああよかった、人違いじゃなくて。背が伸びすぎで一瞬、わからなかったよ」
「コーエンも大きくなったね。声も変わった?」
ルッツは笑顔を作ってみた。コーエンの顔が緩んだ。笑顔など、大人ばかりの農場ではほとんど使う機会がない。
「すごいね! 1年前にちょっとお話しただけなのに覚えてるの? 背はね、5センチくらい。ルッツはもう大人と変わらないね」
「本当に犬みたいよね。生まれて2年でそれって。寿命も短いのかしら」
コーエンの後ろにいたヴァイオレットが呟いた。ブロンドの髪をずいぶんと伸ばし、顔つきは大人に近づいていた。肩に担いだテニスのラケットバッグから弾薬の臭いがした。
「やあヴァイオレット。きみも元気そうだね」
「は? 知り合いぶらないで。英才教育とやらは社交辞令も教えるのね」
ヴァイオレットが心底不快そうな顔をした。
「学ぶことはいろいろ。毎日大変だよ」
ルッツが肩をすくめてみせると、ヴァイオレットの顔がいっそう険しくなった。
「まったく、なんであなたと組まなきゃならないのよ。いまだに根に持っているとしか思えない」
「姉さん」
コーエンが顔をひきつらせてヴァイオレットをなだめた。
「根に持つ? 俺が?」
「なんでもない。仕事は明日の昼。このまま現場を下見して、セーフハウスで手順の最終確認。駅の駐車場に車を用意させてある。運転は明日の役割と同じで怪力女、あなたがやるのよ」
”怪力女” と呼ばれたヒルダが、ヴァイオレットの投げたキーを無言で受け取った。
「だいたいあなたたち、なんで鉄道なのよ」
「俺が乗りたいって母さんに頼んだ」
「母さん……? あなた、あの老婆を母さんなんて呼んでいるの?」
「俺にとっては母さんだからね」
「ああ気持ち悪い」
ヴァイオレットが身震いしながら白目を剥いた。
「あたしと弟が先を歩く。このちぐはぐな四人じゃ目立つから、スーツの怪力女は仕事中を装って少し後ろを。ルッツ、あなたは……なんなの、そのぶかぶかな服装」
「こうでないと動きづらいんだ」
ルッツは両手を広げ、オーバーサイズのパーカーとジーンズを見せつけた。
「あ、そ。キョロキョロしそうだから、観光客にでもなったつもりで歩きなさい。迷子は勘弁して頂戴」
「大丈夫。ベルリンの地図はだいたい記憶しているから。観光客になりきって、楽しみながら歩くとするよ」
「嫌な2歳児」
◆
作戦の開始予定時刻まで20分。ヒルダが運転する車から降りたルッツは、オフィスワーカーや観光客に紛れてベルリンの街をしばらく歩いた。予報通りの快晴。五感を使いながら高級ホテルや劇場、アートギャラリーなどの前を通り過ぎ、昨日の下見で決めておいたポツダム広場のベンチに腰掛ける。監視カメラの死角で、人の注意が向かず、ポツダマー通りが見渡せる位置。
『対象の車がポイントを通過』
ヒルダの無線がイヤーピースに届いた。
『予定通りね』
ヴァイオレットの声。低層ビルの屋上に上がった姉弟は、とっくに準備を終えている。
対象の男は連邦国防省の大臣を務めたこともある大物で、己の汚職を棚に上げて組織に挑発的な発言を繰り返していると教わったが、ルッツにとってはどうでもいい情報だった。本作戦で最も重要なのは、人狼が初めて公衆の面前に姿をさらし、粛正を成功させること。伝説を史実として認知させる歴史的な日に、童話に見立てた小細工は必要ない。単純だが、失敗は許されない。
『対象の車をスコープで確認。交差点の信号はグリーン。ルッツ、後部座席から出てきたところをやるのよ。腰を抜かして動けないようなら、引きずり出してから始末して。野次馬がしっかり撮影できるようにね』
「任せてくれ」
『助手席にいる護衛の動きに注意して』
「心配ありがとう」
無線からヴァイオレットの舌打ちが聞こえた。
ルッツはゆっくりと大きく呼吸しながら、ポツダマー通りに目を光らせた。ほどなく対象を乗せた車が左手からやってきて、目の前を通り過ぎた。スモークで対象の男は見えないが、豪邸前に忍ばせたカメラの映像によれば後部座席にひとりで乗っている。その車が蛇行して反対車線の路肩に突っ込むのと、街に銃声が鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。
運転手を失った車はその場で沈黙したまま、横っ腹に2発、3発とヴァイオレットの大口径弾を浴びた。防弾性のサイドガラスは砕けたが、ドアの分厚いパネルを貫通するには弱い。着弾の衝撃でぎしぎしと揺れる車に4発、5発、ドアに拳大の穴が穿たれる。四人の作戦において、防弾仕様車を銃一丁でスクラップにする必要はない。ヴァイオレットの役目は、車内の人間を外に追い出すこと。あちこちで悲鳴があがり、人々が逃げまどう。命知らずなのか鈍いのかわからない数名が、スマートフォンを車に向けている。6発目は放たれない。対象が外に逃げ出すチャンスの演出。
『助手席の護衛が後部座席に移動。対象と接触中。奥側のドアから出てくるわよ。車のルーフが邪魔で射線が通らないからあとはよろしく』
赤外線の動きすらも捉えるヴァイオレットの ”目” が報告した。
「了解」
ルッツは立ち上がった。
『車内から声が聴こえない』
コーエンの声。
『あたしは殺してないわよ』
『違うよ! 無言なんだ。普通は何か言うよ、行きましょうとか、私が先にとか――』
姉弟が言い合っているうちに、被弾を免れた奥側の後部ドアが開いた。ルッツは周囲を素早く確かめながらイヤーピースを外し、靴を脱ぎ捨て、力を解放した。骨という骨が一瞬にして形と構造を変え、銀色の豊かな体毛と肥大化した筋肉が衣服を膨張させる。変身に痛みや苦しみは無い。満月である必要も無い。教育の一環でいくつもフィクションの狼男に触れてきたルッツは、その変身の演出に辟易していた。どれもこれもが大袈裟で、あくびが出るくらい長ったらしいのだ。
獣の足でアスファルトを蹴り、一瞬で道路を横断する。護衛が車の陰で身を屈め、銃口を左右に振っていた。ルッツは鋼すらも切り裂く爪の一撃で護衛を片づけ、後部座席に半身を乗り入れた。
「連邦警察よ!」
そう叫んだ女は座席の奥で身を屈めたままショットガンを構え、トリガーに指を掛けていた。対象の男がいない。
「は? 狼?」
驚きと混乱を表した女の目とルッツの獲物を狙う目が一瞬、互いを見合った。女の形相が変わった。ルッツはとっさに身を翻したが、至近距離の散弾を避けきれず道に吹き飛ばされた。轟音で聴覚がやられ、力の入らない左前足はちぎれかけている。女がショットガンのグリップをスライドさせ、間髪入れず2発目を撃ってきた。かろうじて横に飛び退いた瞬間、女の車の尻に、見覚えのある車が突っ込んだ。ヒルダの車だった。
【続く】