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約束事

 雨叩く夜の密林。深い深い海の底のような闇に紛れ、湿気を掻き分け、兵士たちは退却を続けている。
 負傷者のうめき声と、血の臭い。
 全員の荒い呼吸と、汗の臭い。
 追駆者たちの散発的な銃声と、硝煙の臭い。
 雨では消えぬ、戦場の音。
 雨では流せぬ、戦場の臭い。
 兵士たちの足並みはすっかり乱れ、随分と数も減っていた。下手に反撃する者は、横殴りの雨のように返ってくる敵の弾に蜂の巣にされた。まだ動ける者だけが、黙々と自陣を目指している。
 三郎は、弱った清に肩を貸し、先行く人影を頼りにひた歩く。右足、左足、右足、左足。口の周りの雨粒を舐めれば、泥の味。
「置いてっとくれ」
 また清が言った。
「帰らにゃならん」
 三郎の答えもまた同じ。
 同郷の清は二十歳になったばかりで、駆け込み婚の嫁が帰りを待っている。裕福で厳格な父と、心配性の母。病弱な兄と、快活な妹。生まれたときから貧しく、村民から爪弾きにされてきた三郎だが、清の家には何度か世話になっていた。
「三郎さん、置いてっとくれ」
 何度目かの清の声は、手榴弾の音で掻き消えた。耳が元に戻ってみれば、すぐ後ろに敵の声。三郎は斃れた同士を踏み越え、立ちすくむ同士を押しのけ、前に進む。肩から清がずり落ちる。つられて転げた三郎は、木々の隙間に光を見た。前方、投光器。見慣れた服の兵士たち。それに土嚢と、機関銃。
「ほれ! 清! 着いたぞ!」
 三郎は、清の頬を張りながら叫んだ。同時に、何発もの弾と異国語が、背後から飛んでくる。三郎は立ち上がり、清の首根っこを掴んで引きずった。だが清の腕が、膝が、前に出ない。返事が無い。三郎は獣じみた大声をあげながら清を抱え上げ、よたよたと駆け出した。背中に弾が食い込み、足がもつれる。それでも三郎は足を前に出す。右、左、右、左。
「息子が生きてりゃ八十円」
 清の父と三郎の、約束事。二人だけの、約束事。
 右、左、右、左。

(完)



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