『赤、青、白』 #パルプアドベントカレンダー2021
――2021年12月24日 四谷三丁目
二ヶ月ぶりに来てみれば、四谷の夜に活気が戻っていた。新宿通りから一本入ったこの通りにも、クリスマス効果でずいぶんと人が流れてくる。真っ赤なショートダウンにサンタ帽姿の私に、道ゆく人たちの目が向いて、それて。向いて、それて。向いて、それて。
私は小さく咳払いして、もう一度――
「クリスマスケーキ、いかがですか……」
バイト収入を失う大学生が多いなか、不定期でも仕事をくれるこの店はありがたい。ただ、いくら人手が足りないからって、呼び込みを任されるのは予想外だ。人前に立つのは大の苦手。マスクで顔が隠せるのが唯一の救い。
「クリスマスケーキ、販売中です……」
呼び込みを始めてから一時間、冷たい視線にはやっと慣れてきた。麻痺してきたのかも、けど。とにかく寒い。このところ暖房が効きっぱなしの自宅にこもりがちだったせいか、風が軽く吹くたびに体が縮こまる。
手をグーパーさせながら左右を見渡す。腕組みした笑顔のカップルが予約必須のフレンチ店に入っていく。仕事帰り風の女性はテイクアウトの袋を提げて足早に駅の方へ。一人で歩いていた若い男性と目が合った。
「いかがですか、クリスマ――」
男性、スルー。
「――スケーキ……苺づくしの……」
「葉子ちゃん、もっと元気よくいこう。大きな声で」
見かねたのか、オーナーシェフが店から出てきて私の背中を叩いた。
「あ、はい……大きな声はあまりよくないのかなって」
「平気平気。もうコロナなんて怖くないでしょ」
「そう、なんですかね」
「通行人の邪魔にならないようにね。いろいろうるさいから」
もともと軒下から一歩も動く気になれなかったので、「はい」と素直に返す。
「さ! 明るく元気よく愛嬌よく! カマしてこ」
「は、はい」
「頼んだよ。あ、そうだ、葉子ちゃん実家暮らしだよね」
「です」
養子ですけど、とは言わない。いつも面倒な会話になるから。
「ケーキ余るだろうから、買ってってよ。五号でいいよね」
「え、でも」
「大丈夫、少しマケとくから。じゃ頑張って」
オーナーシェフは言いたいことだけ言って、店内に戻ってしまった。
「はぁ……」
時給千百円で四時間。ここのホールケーキを買えばほとんどタダ働きになってしまう。材料費が高騰しているのだから、余らせるくらいならクリスマスは予約客のみにすればいいのに、と思う一方で、飛び込み客が多い立地だけに今日こそは稼ごうという気持ちもわからなくはない。
「五号なんてひとりじゃ食べきれないし……」
叔父、叔母、義弟。あの人たちと最後にケーキを食べたのは何歳のときだったか。
もう一度溜息を吐いて、吐き切って、とにかく声を出すことに集中する。
「クリ――」
顔を上げて口を開いた瞬間、知っている人物が視界に入って、喉がきゅっと締まって、鳥肌が立った。
田中 剛介。
映画研究サークルのひとつ先輩。二年前、初めて見たときは控え目な人というか、私に負けないくらい暗い感じで、聞き取れないくらい小さい声が印象的……だった。グレーのニット帽にグレーのマスクでほとんど顔が隠れているけど、間違いない。あの目。鳥のように小粒でまん丸な目をキョロキョロと――こっちに歩いてくる?
「や、九条さん」
軽い感じで手を挙げながら、私の目の前で止まった。
「田中先輩……奇遇ですね」
「お、この恰好でも俺ってわかる? いつもはホラ、もっとシュッとした高い服着て、パリッとしてるからさ」
「はい、まぁ……」
よく言う。去年から急にキャラを変えたのは何故なんだろう。ファッションも、喋り方も、個人の極めて勝手な感想で言えば、前の方がずっとよかった。
「いやぁ、よかった。ここにいるんじゃないかと思ってさ。久しぶりだね。直接顔を合わせるの」
いるんじゃないか?
なぜここだと? ケーキ屋でバイトしていることは隠していないけど、店まで知っているのはサークル内だと一人だけ。彼に話した覚えは絶対にない。わざわざ調べたのだろうか……?
「何か、用ですか」
「そ。少し話がしたくてさ」
はなし? 彼と二人きりで会話したことは一度もない。私からすれば、話すことなんてひとつもない。この人の ”火” を見てしまった日から、ずっと距離を置いてきたのだから。
「すみません、バイト中なので」
「九条さんが呼び込みなんて意外だなあ。でもカワイイから適任かも? どう? 売れてる?」
「それは……」
「俺にもやらせてよ」
彼は一方的に私からサンタ帽を奪って、自分のニット帽とマスクを外す。「みんなクリスマスだとか言ってさ、笑えるよね。どう? 似合う?」
おもちゃを手に入れた子供みたいに嬉しそうに被って、下唇を舐めた彼は、道路の方を向いて……パンパン! と手を叩いた。
火。
色は、赤。
彼の全身から、ゆらゆらと真っ赤な火が生じる。
火力は四段階の、二。
火。特定の人にだけ生じる火。
たぶん、その人自身も認識できず、私だけに見える火。
初めて見えたのは、八歳のときだった。叔父が運転する車に乗っていると、歩道にいた着物姿の老女がぼうぼうと燃えていた。私は「燃えてる」と叫んで、自分の手を見て「私も燃えてる」とパニックになって、泣いて。病院でいろいろ検査を受けさせられて。原因なんてわからなくて。
それから私はいくつかの火を目撃してきた。年に一人か二人。多い年は四人。街の中で。駅のホームで。修学旅行先で。
火の色は二種類あった。赤い火か、赤と青の火か。ほとんどは、赤一色。赤と青のケースは、私を除けば今までに二人だけ。
誰にも信じてもらえないのだと悟った私は口を閉じて、見えないふりをするのも上手くなった。このまま一人で悩みを抱えて生きていくつもりでいる。
でも――
私はさりげなく自分の胸、そして両腕を見る。
火。
私も燃えている。
色はいつも通り、赤と青。
二色の火が、私の体のあちこちで蛇みたいに絡みあう。
火力は四段階の、一。
他人の火が見えるときは、いつもこうだ。
これだけは消え去って欲しい。
性別も年齢もばらばらな赤の他人たち――火の主たちと繋がっているような気持ちにさせられるから。
目の前の、この人とも。
彼は熱がる様子もなく、道路の真ん中に躍り出る。その両肩から、腕が、焼け焦げたように真っ黒な腕がずるっと生えて、インド神話の神様みたいな四本腕になった。CGみたいな彼のこれを見るのは二度目。
何も知らない通行人たちは彼をちょっと邪魔そうな目で見て、脇を通り過ぎていく。
去年、小さく集まったサークルの会でこの腕を目撃したとき、ありえなさ過ぎて叫んでしまった。発火以外の異変なんて初めてだった。何とかその場は誤魔化して、それ以来、彼と直接会うことは避けてきた。
私は視線を彼の首元に定める。いびつな腕に焦点が合わないように。見えていると気づかれてはいけない。
「さあさあ通行人の皆さん! 今日はクリスマス! このお店でクリスマスケーキを売っています。はい、買ってください。あなた、あなたとあなた、ほらあなたも、さああなたも。買ってください。たくさん買ってください」
彼が路上をはしゃぎまわると、二本の黒い腕が通行人の頭を次々と鷲掴みにしていく。頭を掴まれた通行人がとつぜん進行方向を変えて、ケーキ屋に吸い込まれていく。次、次、次。あっという間に店内がいっぱいになり、外に行列が伸びていく。
異様。
これがおそらく彼の ”力” なのだ。まるで映画や漫画のサイキック。
「ハハ! みんなケーキ大好きだね!」
彼は満足したのか、サンタ帽子を脱いで私に差し出した。
「田中さんが、上手なんですよ」
そう言って受け取ろうとした瞬間――黒い腕が私の頭に伸びた。意表を突かれて心臓が跳ねる。
「俺について来て」
彼が唐突に言った。頭を掴まれた感覚は無い。でもきっと掴まれている。サンタ帽を凝視したままゆっくりと受け取って、後ずさる。
「何ですか急に」
目を伏せたまま答える。
「あれぇ。おかしいな。おかしいだろ」
明らかに苛立っている声。
「何がおかしいんですか?」
「え? あー、いや、気にしないで」
彼は私の顔を覗き込むように首を傾ける。薄気味悪い笑顔。
「葉子ちゃん、ちょっとこれどうなってるの!?」
オーナーシェフが声を上ずらせながら出てきて、
「スゴイよ! もう外はいいから中を手伝って、はやくはやく!」
と戻っていった。
「先輩、私、行かなきゃなので」
口実ができた私が軽く会釈して背を向けると、
「頑張ってね」
と声が返ってきた。
聞こえないフリをして、店に駆け込んだ。
◇
当日販売用のケーキは完売、予約分もすべて渡し終えて、私は予定より早くバイトを切り上げた。店の裏手に停めておいた自転車のカゴに、ケーキの箱とポーチを入れる。大盛況に気前をよくしたオーナーシェフが「千円でいいよ」と確保しておいてくれた、けど。正直、扱いに困ってしまう。食べきれずに残したら家では捨てづらい。そもそも家まで自転車で三十分、ガタガタ揺らせば着くころにはきっとぐちゃぐちゃだ。
「はぁ」
仕方なく自転車を押すことにして、暗い裏通りを少し進むと、物陰から田中先輩が、まだいたの? 姿を現した。
「お疲れ」
「先輩……あの、わざわざどうしたんですか?」
「九条さんってさ、俺のこと避けてる?」
彼がゆっくり近づいてくる。
「いえ、そんなこと、別に」
とっさに走って逃げることになるかもしれない。そっと、自転車のスタンドを立てる。
「以前はさ、梢ちゃんや真紀たちのグループでよく一緒になったじゃん? 最近だってオンラインの集まりに俺がいるとすぐ落ちちゃうし」
梢。真紀。どちらも彼と交際していると噂が立ってすぐ、サークルに顔を出さなくなってしまった。授業にも。
「そういうワケじゃ、たまたまですよ」
「去年からだよね。よそよそしくなったの」
「よそよそしいだなんて」
「何か見たんだろ?」
声のトーンが変わった。
「何か……って」
「さっきも、さ」
「さっき?」
「これだよ」
不意に彼が燃えて、同時に肩から黒い腕が生え――つい視線を、慌てて戻す。
「ホラ! ハイ見た! 今! 見たろ!? 見た見た見た! やっぱりな! 何で見えんの? もしかして九条さんも……あのさ、俺、コイツになってまだ日が浅いからさ、もし九条さんがそうなら第一号になるんだけど、もしかして……お前も悪魔?」
彼が、最後だけ小声で。悪魔、と言った。
「悪魔って……」
「あ? 悪魔は悪魔だよ! まだトボけんの? 腹立つなぁ!」
ガラス玉みたいな目玉に狂気の色が走る。
「どっかこう、似た感じがしたから期待したのによぉ。じゃあナニモンだよオメー。あ? 答えろよ」
彼は詰め寄りながらナイフを取り出した。
「あ、あの、あ」
悲鳴、上げなきゃ。
「騒いだらブスリとやるぞ」
狭い裏通り、目の前にはナイフを弄ぶ自称悪魔。まわれ右して走れば表通りに出られる。だめ。きっと追いつかれる。店の裏口はすぐそこ。だめ。ドアを開ける前に刺される。でも防犯カメラを盾にすれば。
「殺すと面倒なんだよなあ。警察がよぉ。だからこれまでみたく好き勝手してから一生オウチに引き篭もらせたいワケ。ノーリスクで最高。なのにオメー、なんで俺の命令をきかないの? なあ。なあ?」
「……知らない」
「知らねーワケねえっしょ。答えろ。なあ。なあ!」
「わかんない! 知らない、わかんないって言ってるでしょ!」
「は?」
彼の表情が心の底から「は?」という感じで固まった。
「……本当にわからないの。私が聞きたいよ。子供のときにいきなり見えるようになって。誰にも言えないし。見たくもないのに。お願いだからほっといてよ!」
言い切った。唇の震えが止まらない。
彼は「へぇ」と素っ気なく言って、
「ってことは、俺が悪魔だってこと、九条さんしか知らない?」
と、穏やかな口調に戻った。
私は頷いた。
「友達も? 家族も?」
私は頷く。
「そっか。じゃあ」
私のお腹にナイフが刺さった。
「え」
ナイフが抜かれて……太腿に液体がつたう感覚。刺された。まずい。血が。刺された。とりあえず体は勝手にぺたん座りになる。
「うん、いい感じ! 俺ネットで勉強したんだ。何度も刺すとさ、顔見知りによる怨恨だのと警察が嗅ぎまわるだろ。首や心臓をひと突きってのも不自然だろ。大繁盛のクリスマス、閉店後の売上げを狙った強盗っぽくしないとさ。さっきの髭マッチョ、ここの店長? アイツも俺の顔をさ、見ちゃったよねー」
彼はべらべら喋りながら、自転車のカゴにあった私のポーチを物色、財布を抜き取った。
「オイオイ勘違いすんなよ? 俺、金なんて要らねーんだぜ? 貰い放題だからよ。でもホラ、それっぽくしないとさ。ホラ、さっさと死ねよ。ラクになるぞ?」
横になりたい。冷たい。とても寒い。でも横になったら負けだ。いつか何かに巻き込まれて死ぬんじゃないかと覚悟してきたけど、こんなヤツに殺されて終わりたくはない。
「死ね。は、や、く。……刺しどころがイマイチだった? もう一箇所だけなら刺してもいいかな」
血まみれのナイフをペロリと舐めた彼が「ヤベ、俺のDNAが」とふざけて――何かに気を取られたように、表通りの方に顔を向けた。
「あ? なんダブッ」
いきなり誰かに飛び蹴りされた彼がワイヤーアクションみたいに高速で吹っ飛ばされて、電柱に激突した。
火。
突然現れたその人も、燃えていた。
凄い。これまで見てきたどの火よりも、大きな火。
色は、赤と白。
白は初めてだ。
力強く絡み合う赤と白が戯れて、衝突して、混ざって、爆ぜて、綺麗。
その人は背を向けたまま一瞬、私を見た。肩まである長い黒髪の隙間から、鋭い目が覗いている。男性。
男の人は何も言わず、レザージャケットのポケットに両手を突っ込んだまま先輩――いや、悪魔に近づいていった。へたり込んでいた悪魔は血を吐き、呻きながらよろよろと立ち上がって、両肩から黒い腕、男の人の頭を――危な――え?
避けた! 長い黒髪がフワリと揺れる。
黒い腕がまた掴もうと、また避けた! あの人、見えてる!
「あんで避けんだらああああああああ!」
悪魔が怒鳴って今度は殴る殴る殴る殴るその場で避ける避ける避ける避ける避ける速すぎてマトリックスのスミスみたいに、あ、回し蹴り。ボキッと嫌な音。悪魔が背中からコンクリート塀に激突、ずるずると座って、頭が前に垂れて、動かない。
「コイツですかい」
さらにもう一人、表通りの方から男の人が歩いてきた。黒いスーツ、黒マスク、黒髪を丸刈りにした渋い……ヤクザみたいな……左手にビニール袋を持っている。彼は平然と悪魔に近づいて、「イタルさん離れて。そこだと汚れますんで」と言った。イタルと呼ばれた長髪の人が、何歩かさがる。二人は仲間? 悪魔の傍らに立った丸刈りの人が、右手の指をピストルみたいな形にして、悪魔の頭の、左のこめかみあたりに狙いをつけた。
火。また! この人も。
私と同じ、赤と青。
でも火力は私なんかより遥かに強い。
「ドン」
丸刈りの人が呟いた瞬間、悪魔の頭が本当にピストルで弾かれたみたいに跳ねて、地面と塀にバッと赤いのが飛び散って、ドロっと、オェ……横倒れになって、死んだ。たぶん。悪魔も死ぬの?
「あーもー、お前ら勝手に暴れるなって言ったろコラ!」
今度は女性の声。
バタバタと女性が駆けて来た。ダウンジャケットにマフラー。ゴスケと呼ばれた丸刈りの人が、そのコロコロとした女性に深々と頭を下げる。
「えぃ、すみません。しかしお嬢、見殺しにするわけにも」
丸刈りの人が私を見る。お嬢と呼ばれた女性も私を見て、マスクで曇った眼鏡をずらして、「見られてるじゃねーか!」と白目を剥いた。私は顔を引き攣らせながら感謝を述べ――激痛。お腹が焼ける。意味不明の連続で忘れていた。刺されて、死にそうなんだ。両手、血。もう倒れていいかな。倒れる。女性が私のコートのボタンを外して、服を捲る。
「あー、刺されてるね。傷はまあまあ、出血ボチボチ」
そうなんです。刺されちゃって。
「救急車、呼びますか」
ゴスケ氏がスマホを取り出す。ピストルのマネをしていた人差し指が無い。女性が首を横に振る。
「アホ。ツラ見られて、刺し傷だぞ。病院が通報して警察沙汰からの目撃証言コンボで最悪シナリオコースだ」
女性は早口でしゃべりながら銀色の注射器に怪しいカートリッジを装填して、問答無用で私のお腹に刺した。
「致命傷じゃない。助かるよ」
彼女は首に巻いていたマフラーを外しながら、自信に満ちた声で言った。ゴスケ氏が手伝って、私のお腹にマフラーがキツく巻かれた。
「これでよし。今はチョー痛いだろうけど傷はキレイに治る。ドクターXもびっくりのミラクル技術でね」
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして。さて、さっさと移動……の前に自己紹介だな。アタシはアコ。こう見えてまともな企業の経営者だ。この近くにオフィスがあってね。坊主頭はゴスケ。ロン毛はイタル。アンタは?」
名前? 名前は、
「葉子、です」
「ヨーコね。ヨーコ、今から近くのマンションに連れていく。怖いことをしようってんじゃない。少し話をしましょうってだけ。ソファでくつろいで、消毒がてら強い酒でもやりながらね」
「はなし、ですか」
「そう。アレとか、ウチらについて。知っておいた方がいい。オーケー?」
アコ氏は、アレ――死体――田中先輩――悪魔を指した。
彼女の言葉遣いは荒いのに、なんとなく温かい。ヤクザの事務所にでも連れていかれるのかもだけど、もっと知りたい。私は頷く。
「同意だね。よしイタル、彼女をマンションへ連れてってくれ」
死体を漁っていた彼は、驚いたような顔で振り向いた。
「頼むよ。人目を避けて怪我人を運ぶにはアンタのハットリ君ムーブが一番だ。な?」
イタル氏は不満そうに私を睨んで、近づいてきて、殴られ――じゃなく、何かを私に差し出した。
財布が二つ。
「あ、私の、こっち……ありがとう、ございます。そこにポーチが」
痛みに耐えながら、目線で自転車を示す。
「ヨーコのチャリンコね」と、アコ氏は察してくれた。彼女はイタル氏から財布を二つとも奪い取り、私の財布だけ「ポーチに入れとけ」と言ってゴスケ氏に渡す。
「ゴスケ、お前は彼女のチャリで先に行け。アタシはそこの店でケーキ買って帰るから」
「えぃ。お借りしやす」
ゴスケ氏が私にお辞儀して、自転車にまたがった。スーツ姿の渋い男性が、ジェードグリーンのミニベロに。可愛い……かも。彼は手に持っていたビニール袋をカゴに入れようとして、困った顔をした。そうだ、カゴには私のポーチと、
「あの、ケーキ」
思わず口に出る。
「自転車のカゴに、ケーキがあって、大きいので、よろしければ……」
「マジ?」
アコ氏が食いつく。
「はい、私そこのバイトで、もうケーキは完売で――」
「おお神様仏様……。よし! ならアタシがチャリを押そう。そっとな。ゴスケは焼き鳥を持て。じゃ行くぞ」
「えぃ」
あの中身、焼き鳥なんだ。ゴスケ氏のビニール袋に気を取られた瞬間、私の体が持ち上げられた。
「わっ」
お姫様抱っこしてくれたのはイタル氏だ。彼の首元、ネックレスが光る。音符の形をした銀色のチャーム。符頭の部分に青く輝く石がついて、とても可愛い。贈り物だろうか。
「イタル、怪我人だから丁重にな」
アコ氏が釘を刺して、
「ああそうだヨーコ、イタルはな、口がきけないから。耳は地獄耳」
と添えた。
そうなんだ、とイタル氏の顔をチラと見ると、殺すぞって感じの怖い目で見下ろしてきた。慌てて逸らす。と、地面に転がる田中先輩のニット帽が見えて――
「え……」
田中先輩が、悪魔が、灰になっていた。冷たい風に吹かれて、人の形が崩れていく。ヴァンパイアによくあるやつだな、ブレイドとか……などと考えていると、突然の浮遊感、逆バンジーみたいな超急上昇、G、なん、
「わあああああ」
赤と白の火に包まれた私は、イタル氏は、建物の屋根に飛び乗った。彼は私を抱えたままさらに高い屋根へジャンプ、ビルの屋上、ありえないスピードで一気に駆け抜けて、待って向こうのビルへ? ――あんなの届かないストップストップ! 無理無理無理! 私はぎゅっと瞼を閉じて……気が遠く……
◇
マンションの寝室らしき部屋で目を覚ました私は、ジャージ姿になっていた。お腹の傷は、信じられないことにもう塞がりかけていて、ピリピリと少し痛いくらいで、お水も飲めたし、アコさんには「腹パンしない程度に食べてもオーケー」とまで言われた。
リビングであらためて挨拶した私は、すでに酔っぱらっていたアコさんと、日本酒をひたすら飲むゴスケさんと、ナッツをかじるイタルさんと、もう一人、お相撲さんみたいな体形でタクミと名乗った若い男の人と、五人でローテーブルを囲んだ。
家具が少なく、生活感の無い部屋。でも誰の趣味か、テレビボードの上に可愛いサンタの置時計。クリスマスまで一時間を切っている。
自然な感じで促された私が、田中先輩について――知り合ってから今日までのことをたどたどしく伝える。彼女たちは途中でいくつか質問を挟みながら、最後まで聞いてくれた。
彼女たちなら……、と、おそるおそる、これまで誰にも話せなかった火のことも打ち明けた。彼女たちは、笑わず、茶化さず、変人扱いせず、黙って耳を傾けてくれて、話が終わると、真剣に私の火――彼女たちは ”能力” と呼んだ――について持論を交わし始めた。私は泣いてしまった。ちゃんと話ができて、信じてもらえるなんて。
「アンタならいいか」と、アコさんはいろいろなことを教えてくれた。嘘みたいな話ばかりだけど、きっと真実なのだろう。お酒のせいで饒舌になりすぎて、途中でゴスケさんにたしなめられていた。
この日本には、世界には、人間の肉体を奪って生きる悪魔がいる。
そして、悪魔と戦う者たちがいる。
戦う者たちは、大きく二つのグループに分かれている。
大半が後者で、それすらも希少な存在だと言う。
ゴスケさんも後者だと明かしてくれた。
アコさんは、いわゆるクオーターらしい。
タクミさんは普通の人。
イタルさんは超激レアで、ハンターと悪魔の間に生まれた人らしい。
たしかに、あの赤と白の火は特別だ。
「ヨーコって、親御さんは?」
アコさんが、何本目かの缶ビールを開けながらさりげなく言った。彼女が何を言おうとしているのか、私はもうわかっている。彼女も、私の答えはわかっているのだろう。
「私が五歳のとき、いつも通りおやすみを言って、朝、目が覚めたら二人はいませんでした。それからは、叔父と叔母の家に」
「そっか。……ヨーコさ、自分の体からも火が出るって言ったろ?」
「はい」
アコさんたちが話したこと、そこに私の経験を足し算すると、あの火はセンサーだ。悪魔や、特殊な力を持つ人たちの行動がトリガーとなって発火し、”色” で何者なのか見分けることができる。そういう能力。
私の火の色は、赤と青。
ゴスケさんと同じ。
私は先に口を開く。
「悪魔だったんですよね? 父と母のどちらかが」
「……まあ、そうなるな」
たぶん、父だ。半ば確信する。けど声に出してはいけない気がして。父との想い出だってゼロじゃない。
「ヨーコさん」
ゴスケさんがお猪口をカラにして、私の顔をじっと見る。
「は、はい」
「混血だってね、胸を張って生きていいんです。お天道様の下で堂々と。何よりあんたはカタギで、善人だ」
「そうッスよ! ウッ、ウッ」
焼き鳥を二本食べしていたタクミさんが、急に大声をあげて泣き出した。
「ウッ。グスッ。ちっちゃいころから大変だったんスねヨーコちゃん。でも元気出して! もうボクらがいるから安心だよ。何でも相談してね。そうだSNSのアカハックしたい相手とかいたら遠慮なイテッ!」
アコさんがタクミさんのお腹の肉をギュッと掴んだ。
「お前は冷蔵庫からケーキ持ってこい。万が一ひっくり返してヨーコの厚意をおしゃかにしたら一週間ジョギングの刑な。毎朝五時執行。三十キロ」
青ざめたタクミさんが機敏に立ち上がる。
「どうぞ、皆さんで遠慮なく召し上がってください」
私が微笑むと、アコさんはお皿とフォークを私の前に置く。
「アホ。ヨーコも食べるんだよ。さんざんなクリスマスって感じだろうけど、甘いもので厄払い。元気百倍だ」
「……はい」
ホントさんざんだったけど……ぜんぜん、さんざんじゃない。
「あー、それとさヨーコ」
「はい?」
「アタシのマフラーさ、高かったんだよなぁ。なあゴスケ」
マフラー。止血に使った。
「いえお嬢、ありゃドンキで二千九百――」
「いいとこのブランド品でなあ! 高かったんだよなぁ。止血で汚れちゃってなあ。ありゃクリーニングの神様でも無理かなー」
「あ……すみません、弁償します」
急に、なんだか態度が。
「いやー、それがもう売ってないんだ。だから体で奉仕してもらうしかねぇかなー」
「体……ですか」
「そ。大学卒業まで、ウチでバイトしないか? 桐島商会。表向きは貿易業だが、ヨーコの仕事内容は対悪魔技術研究開発助手および実戦補助。時給はケーキの恩を加味して三千円、実戦時の危険手当は別途。ケーキ屋のバイトが好きならそっち優先でいい」
「え……」
「ま、考えときな。お? ケーキが来るぞぉ」
ふっとリビングの照明が消えた。この曲は……松任谷由実の定番クリスマスソングがキッチンから流れる。シンセサイザー、ギター。映画のワンシーンが目に浮かぶ。タクミさんがホールケーキを持って登場。ローソクが一本。柔らかくて控え目なオレンジの火に照らされたタクミさん、なぜかモノマネ口調で歌い出す。すごく上手いし、似てるし。
アコさんが「アホか」と言って笑って、ゴスケさんは真顔で手拍子して、イタルさんは横目で見て鼻で笑って、私は爆笑。
こんなに素敵なクリスマス、初めて。
【完】
明日、DAY9の担当は
POOL(ぷぅる)さん。
『クリスマスは何時でもやってくる(仮)』
です。
オタノシミニ!
🎄パルプアドベント2021全作品は、以下🎄
(24日まで毎日更新)
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