『悪は存在しない』のラストについて
ヴェネツィア映画祭で銀獅子賞を受賞した濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』衝撃的すぎるラストの考察が話題になっているので、私も自分なりに考えてこうかもしれないなっていうのを記録しておく。
別に正解ではないだろうし、正解である必要もないと思っている。だって映画のコピーも「これは君の話になる」って書いてあるもん。
以下、ネタバレになるのでよろしくね。ネタバレ読まずに映画のこと知りたい人はこっち読んでね。
そもそも最後何が起こった?
ここの解釈も見た人によってだいぶ違うみたいなんだけど、私にはこういう流れに見えた。
巧がどうしてこんな行動をとったのか…がこの映画の物議を醸しているというわけだ。
自然への畏怖の表れ…?
手負いの鹿が人を襲うことがあることを知っていた巧(そして高橋も巧からその話を聞いている)花が鹿に近づくのは危険だとわかっていたはずだし、高橋もそれを聞いていたから止めようとした。
でもその高橋を止めるために巧は高橋に全力でプロレス技?をかけて気絶させるんですよね。ワンチャン殺すくらいの勢いで。
娘を助けることができたかもしれない状況で、むしろ助けようとした男を全力で止めた、ように見えた。人間(高橋)が自然の裁き(鹿が花を襲う)に手を加えることを巧(バランサーであり、この町の便利屋)は否定した。
その行動が自分の大切な娘を失うことになるかもしれないことをわかった上で。この自然の裁きって感覚が重要だと思ってて。
巧が花を助けるために行動すること自体は、別に自然に逆らう行動ではないと思うんだ。手負いの鹿の親だって、子どもを助けるために人間を襲うんだから。
でも巧自身はあれを自分への罰、自然からの制裁だと感じたんじゃないだろうか。花をほったらかして、この町にグランピング場をつくろうとする人間に協力しようとしていたことに対しての。
だからその制裁にまで手を加えようとする高橋を止めたのでは。
巧、育児ノイローゼ説
高橋と黛の車での会話シーンで、印象に残った会話がある。「心が擦り切れたとき、普通のときなら思いもよらなかったような方向に心が動く」的な話。この台詞が、主人公の最後にとった行動と重なっているのでは?という見方。
巧の家の場面で母親の写っている家族写真が2回ほど登場するのだが、そこに写っている花が今とそんなに変わらない。つまり、なんらかの理由で母がここにいなくなってから(おそらく死別)そんなに長い年月は経っていないと想像できる。
といった描写が彼の心の限界を表しているという解釈も、まぁできなくはないかな~と思う。実際、巧と花は冒頭の森を歩くシーンでは理想的な仲の良い親子という感じがしたが(服の色合いのせいか、ゴールデンカムイの杉元とアシリパのように見えた)物語が進むにつれ、いつも一人で遊んでいる花、絵を描くのに夢中で、花の相手をしていない巧の描写が出てくる。
手負いの鹿が人を襲う知識があった上で、花を助けようとしなかった。むしろ花を助けようとした高橋を止めた。花のことはもちろん好きだし大事だからこそ行方不明になったとき必死で探してたわけだけど、心のどこかでは花を負担に感じていたのかもしれない。
最初にあげた考察が自然を意識した目線なのに対して、こっちはすごく人間の心の部分を見ている。
もともと役者志望で今は芸能事務所で働く高橋が、都会でのクサクサした生活を離れて田舎で暮らそうかな~と、田舎をまるで理想郷のように語る場面がある。ただ、巧も都会で生きる高橋と同じように、口には出さないだけで心の擦り切れがあるのだとしたら。
田舎と都会という対立構造で物語が進むかと思いきや、どちらにも生きる上での苦悩があって、実はその境界がとても曖昧だし複雑だし…というこの作品のテーマにとてもマッチするので、あながち間違いじゃない気がする。
どっちなんだい
結局巧の最後の行動は自然への畏怖からなのか、心の擦り切れからなのか。私は両方あったんじゃないかなと思っている。両方あいまったその瞬間的、衝動的なものだったんじゃないかと。
巧は自然側なのか、人間側なのか。そんな単純な二元論ではないだろうよってのがこの作品のテーマだと私は思ってるからである。
自然と人間の対立ではなく、境界の複雑さ、曖昧さを突きつけてきたのではと。いや知らんよ、知らんけどね。でも「これは君の話になる」つってんだから、まあいいじゃないか。また変わるかもしれないし。あなたの話も聞かせてくれよな。
『悪は存在しない』タイトルの意味
これも自然的な意味と人間的な意味、両方考えた。
自然と人間は完全に分かれているものじゃない。なんなら人間だって自然から生み出された生き物だろう。自然のなかで起こる事象は、時に生物の命を奪う。でもそこに善悪はないよねっていう。
一方、人間の心に関して言えば、悪は存在すると思う。
ただ、この作品が描いたのは私たちが普段映画やアニメで触れるような勧善懲悪とは違って、巧が最後の行動にいたるまでの過程を、緻密に描いたものだと思う。行動自体は悪と言えるかもしれない。
ただ、わかりやすい理由があって、明確に悪だと断罪できるかというと、うーん。
(私がこれまで考えてきたような)悪 は存在しない、だった。
まあいろいろ書いたけど、眠いのでまたなんか書きたいことが出てきたら追記する。
一応これを書くまでにいろんな人の考察に触れた。そもそも花が鹿と対峙する場面は巧の想像で、花はすでに倒れていたという考察もあったし、鹿の魂が巧に乗り移って高橋を襲ったという考察もあったし、巧は実は町の殺し屋で花と共謀して高橋を殺したという考察もあった。全部最高。
私はこの作品、濱口竜介がわかりやすいことが偉いとされるエンタメ業界にメスを入れた作品なんじゃないかなと思ってるので。
ほんと、やってくれたな(?)であった。
別で色と車の中の会話についての記事も書いたので、よかったらこっちも読んでほしい。