新規事業のススメ
※ジーズアカデミーAdventCarender 2020 12/20分の記事です。
私は運動が苦手だ。
小学校4年の剣道は板の床が冷たすぎると泣いて辞めさせてもらった。小学校5年では地元の野球部に入ったが、毎回ベンチで応援専門。ようやく小6の秋の最後の公式戦に出ることになり、家族・おばあちゃん・親戚一同7~8人がもりもりのお弁当を持参して応援に来てくれた。最初の打席、バットを降りぬき球にあたった。私は全速力でファーストへ駆け抜ける。だが審判に注意を受けた。ボールをよく見ていなかったが大幅なファールだったらしい。そのまま三振。ベンチに戻って監督に怒られてそこで交代、次の打席はやってこなかった。その後家族と無言で食べた豪華な弁当はとても喉につかえた。
中学でも通知表の体育はいつも「2」。中学では5段階だった通知表は高校になって10段階になった。それでも体育の評価は「2」のままだった。高校最後のマラソン大会、約15Kmを走り男女合同350人中343位。後ろから7番目。私の後からにゴールした集団は、ゴールするなり全員が次々と体育教師にグーパンチをもらっていた。おーあぶなかった~、と安堵した。ところが後に分かったが、彼らはコースの途中で抜け出してゲーセンにいっていたらしい。時間差で理解したが、私は実質の最下位だった。
そんな運動音痴な少年の逃げ場が「ロック」だった。1983年POLICEの「Synchronicity(シンクロニシティ)」をラジオのベストヒットUSAで聞き、テープに録音してヘビロテしたのが最初だ。中1だった。当時はMTVが盛り上がってきたタイミングで、カルチャークラブ、デュラン・デュラン、カジャグーグーにデビッドボウイなど百花繚乱。お年玉でベースを買い、中3でバンドを始めた。ストリートスライダーズのへたくそなコピーバンドだった。日本のベストテン番組のアイドルを見るのをかっこ悪いと感じた。バンドのせいで女性にもそこそこモテはじめた。おかげで運動コンプレックスはいつの間にかなくなり、音楽にだけのめりこんだ。
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ロックアルバムは貸しレコード屋で借り、テープに録音する。当時アナログ⇒CDの過渡期だったからアルバムには「ライナーノーツ」がついていた。音楽評論家とかいう職業の人たちがそのアーティストにまつわる専門知識をアレコレ披露する文章だ。私はテープにダビングする作業をしながらライナーノーツを読むのが好きだった。
ライナーノーツの中で評論家さんたちは「これは○○の影響を受けている」や「○○というジャンルでは・・・」「○○と比較すると・・・」など知らない単語を使う。それをまた知りたくなって調べ、またアルバムを借りにいっていた。
どのアーティストも誰か別のアーティストの影響を受けていて、それが創作した作品に色濃く浮き出る。すべてのロックはどこか意外なところでつながっていた。ルーツのないアーティストはいない。それに気づいたとき、興奮した。
ロックは1920~30年代のブルースがすべての源流のようではあるが、そのブルースにすら影響を与えた源流がある。たとえばE7(#9)という有名なコードがある。通称ジミヘンコード。ギターでこのコードを鳴らすだけでジミヘンになるやつ。もともとはジャズのコードだそうだ。だがその後、このコードはジミヘンに影響を受けた数多くのアーティストに憧れられ、無数の曲に使われていった。特に多くのアーティストから「ビートルズ」という名前がよく出る。とっくの昔に解散し、ジョンレノンも死んでいるビートルズに20歳ごろに傾倒することになるのだが、それは一昨年に書いた(リンク)ので割愛。
ルーツを辿っていくロックミュージックの旅はとても楽しかった。ロンドンで、西海岸で、NYで、東京で福岡で。70年代と90年代と。時代や場所を超え、少しづつ影響しあいながら違うものが生まれていく。世界中のアーティストはどこかつながっていながら、自分の好きなものを探す旅をしているように見えた。
20歳のころには、色々な曲を聴くことでアイディアが広がり、自分が好きなものがだんだん明確になっていく。何かの影響を受けていることを肯定し、自分の創作活動に夢中だった。自分の曲を聴いてくれた人が「こんなのも好きなんじゃない?」ってまた教えてくれる。
バンドもある程度ライブハウスにお客さんが来てくれるようになっていた。自分の創作がお客さんに届くとき、確かに魂が燃えるような気がした。夢中になっていた。(以下は20歳の時のバンドでTV出演したときの動画)
なお、それらを繰り返してたらいつの間にか大学は3回も留年していた。
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時間は一気に飛んで35歳(2005年)のころ。
私は管理職になっていた。120人ぐらいの部下がいた。セールス、マネジメント、マーケティング、リーダーシップ。新商品開発と商品改善。そういうツールを使い、利益というスコアを競う。成果も付いてきていたので、そういうもんだと思っていた。
その時期に当時の社長の思い付きで、私はたった一人で新規事業の立ち上げをやることになる。40代以上をターゲットに、というざっくりしたオーダーで、テーマも決まっておらず、とりあえず給料はでるものの、PC1台以外は予算もスタッフもなにもなし。
とりあえず2002年に自分が立ち上げたワインスクールの先生に会いにいくことにした。そしてその人の紹介でまた次の人へ。そしてまた次の人へ。それはどんどん広がっていった。
京都舞鶴で棚田で酢を創る若い経営者、静岡のやせた土地で日本一糖度の高いトマトを創る生産者、アロマオイルの生産者、気仙沼で地引網のサークルやってる人、ソトコト編集長、イタリアのスローフード協会などなど。
紹介で人に会うとき必ず聞かれることは「児玉さんは何がしたいの?」だった。「会社が~」でも「流行が~」でもない。「あなたは?」だ。皆、「あなたが何をしたいのか」に興味を持ち「だったら○○さんに会うといいよ」と次の人を快く紹介してくれた。
この時に気づいた。「あ、これは曲を創るときと同じだ」。
音楽の創作は自分が美しいと思うものしか作れない。でも「自分の考える美しさ」とは「どの先人の影響を受けているのか」が必ずある。だからルーツの近い人に合えば、一緒にバンドを組むこともできる。でもそれぞれの解釈が異なっていて、そのアンサンブルがオリジナリティを創っていく。
それまでの仕事は、先人が造っていた種を大きくするものだった。もちろん、すでにあるものを大きくすることも立派な仕事だ。でも、自分を説明する基盤がなくなった時、横文字のビジネスツールはあまり役には立たない。助けてくれるのはいつも「自分の美意識」だった。
そして3ヶ月後「美しく生きることを追求する人を増やす」をテーマに新規事業を立ち上げた。そこから3年でには料理スクール、ダンススクール、代官山のヘアサロン事業などを展開し、年商3億の子会社になった。またとある地域行政と共に内閣府特区を申請し「大学院大学の設立準備室」が立ち上がった。
だがこの事業は道半ば親会社の株主が親会社ごと売却を行ったことで経営体制がひっくり返り、私の事業は全事業分割して自分の手で売却をすることになったが、私にとっては無から有を生む、素晴らしい体験になった。
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さらに時期は飛び、2015年の4月にデジタルハリウッド株式会社から新規事業として「G's ACADEMY」を創った。5年経った今は素晴らしい卒業生が次々と羽ばたき、卒業生による起業も60社近くなり、新しい事業も次々に誕生し、1400名のコミュニティになった。
ジーズを5年間やって、今一番思っているのは「なにかをゼロから生み出し、誰かに届ける」ってことは本当に素晴らしく幸せなことだなあ、ということ。
新規事業は新しいバンドで新曲を創って顧客に演奏するようなものだ。自らが曲を書いて仲間を集めてもいいし、楽器演奏のチカラを蓄えて想いが近い人のメンバーに入ってもいい。ビジネスなら楽器ができなくてもできる。人と違ってもいい。コンプレックスがあってもいい。むしろそれが糧になり、見たことも聴いたこともないものが生まれるという奇跡。魂が燃える濃密な時間は人生を生きた証になる。
未来が不確定要素にあふれる今は、すべての人がそうしたほうがいいとすら思っている。
だれもがアーティストのように、創造し、魂を燃やして生きる社会。そんな未来が見たいので、来年もジーズをがんばります。
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