栗原康×田中馨 対談 第2回 なんで僕は東京じゃないところに住んでいる人に声をかけてライブをしたかったんだろう
バンドをやるおもしろさの根本に、「バカをうつされて興奮するような瞬間」があるんじゃないかという田中に、評伝執筆との共通点を語り始める栗原氏ーー。まだまだ終わらない初めての対話、第2回です。
「ただ自分のことだけに執着していなさい」
栗原 バカってうつるんですよね。
田中 バカなこととかたくさんしたんですけど、僕は中学高校と学校寮で過ごしたんですが、まわりの友だちに恵まれて、すごく楽しい学生生活を送っていて。当時の自分は目立たないようにするタイプだったんです。
栗原 自分もです(笑)。
田中 自分からバカを発信できないタイプだったし、自分のなかでは「バカをもらってた、バカをうつされてた」、と思っていて。人と人って何かそういうものがありながら、何か作ったりっていうとクリエイティブになっちゃうからあれなんですけど。
栗原 大杉栄が米騒動について書いてるんです。日々やりくりして生きている普通の主婦や労働者が米すら食えないっていう状況になったときに、米屋にウワーッて押し寄せて「この悪徳米屋が!」って下駄とかバーンと投げつけて米を奪い取っていく。一人のおばちゃんが立ち上がると、まわりのおばちゃんたちもバンバン立ち上がってきて、それを見た不良少年とかおっちゃんたちも立ち上がる。気づいたら暴動状態になっていて、最終的には「米奪うぞ」っていっていたのに、米屋に火を点けて米ごと燃やしちゃう。目的を見失っていくんです。よく批判されるんですけど、大杉栄はそれをがすごくいいんだといっているんですね。なぜかというと、それは民衆の生きる力の発揮であり、実はそれこそが民衆の「表現」なんだっていうんです。
田中 表現?
栗原 もちろん実力行使というか、権力者なんて頼らなくても、自分たちの力で自分たちは食っていけるんだということを示すのは大事です。でもそこだけを大杉栄は見ていたわけじゃない。人がわらわらと集まってくると、食っていくという目的すら見失って、予期せぬ行動が続々と起こっていく。こうあるべきだということすらスッと抜けちゃう瞬間がある。よくわからないものに人が化けていく。身体で表現している。それは文章も同じだし、ミュージシャンの方がやろうとしていることもそうなんじゃないかなって。
田中 文章でもですか?
栗原 評伝を書くとき、よく人に「憑依するよね」っていわれるんです。
田中 ある意味、バカをうつされる、バカがうつるんですね。
栗原 僕はだいたい好きな人の評伝を書くので、その人になりきるんです。その人の心の奥底だったり、潜在的に持っているものだったり、そういうところまで潜り込んでみる。でも、本当になりきっちゃダメなんです。それってもうゴーストライターですからね。
田中 伊藤野枝のゴーストライター(笑)。
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