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【多様性のある社会】ってどんな社会?

*今日の記事はあくまで私個人の経験や感覚に基づく私見です。これが正しい!と押し付けるものではありません。

最近、野本響子さんのnoteをよく読ませていただいています。

記事を読みながら、めちゃめちゃ深くうなずいてしまいました

マレー系のイスラム教の人々や華僑系の人々、他アジアや各国から移住してきた人々が住むマレーシアと、元々はイギリス系白人文化が軸にありながらも他ヨーロッパ系(特にイタリア、ポルトガルなど)、中国系、インド系、中東系など世界中からの移民が集まるオーストラリアは、どちらも、少なくとも日本よりは「多様性のある」社会だと思います。

日本の「多様性」イメージ

今はインターネットで世界中の人々とSNSで簡単にやりとりができるし、ニュース記事も読める。実際に声を上げて発信している人もいるし、少しずつ変わってきているんだと思います。それでも、日本に帰国するとがまだまだ多様性を認めない「社会の空気」が強いなあと実感します。

野本さんが書かれているように、ザ・多様性を実践している社会にいて感じるのは

・他人が間違ってい(ると自分が思っ)ても正さない

・イラッとする出来事があったり人としてどうかと思ったりしてもとりあえず「文化の違い」として済ます

・文化の違う相手とは極力距離を置く(なのでだいたい出身国・地域で固まる)

・※ただし学校・職場等での差別は厳禁=絶対に全員が守るべき最低限のルールを各言語で提示する

・↑を守れなかったら全コミュニティから総スカン。

どこが多様性?って思ったでしょうか。

日本の会社の求人とかでよく「多様性のある職場!」とか「ダイバーシティの必要性」という言葉を目にします。一時期、クラウドワークとしてライターをしていたときにもこれらのワードを詰め込みまくった(笑)コンテンツの依頼が多い時もありました。そこに描かれるイメージは、

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こんな感じ…(あくまで私見です)↑2回めワーホリでバックパッカーズホステルのバーベキューパーティにて。みんな仲良く!違う人種、文化、立場の人達が和気あいあいと場を作る!みたいなの。

や、確かに、こういうのもあります。旅行中に偶然同じ宿に泊まった仲間と一緒にご飯食べて酒のんでウェ~イ!ってのも楽しいし人種、立場的に色々多様性はあります。

でも、これって一時的な浅い関係だから簡単にできること。

グループを組んで仕事の責任を共有したり、家族として受け入れて生活や人生の様々なイベントを一緒に過ごすには、口先だけじゃない”本当のダイバーシティ”が必要で、これが結構難しい。個人個人の意識はもちろん、それを実現しようとする社会や国、会社のルール&仕組みがとっても重要です。

私は海外在住で、日本における最新の現場感覚はわかりませんが、数少ない経験や日本のSNS、ニュースなどを見ていると「なんでそこまでこちら(マジョリティである平均的日本人=ある程度の年齢以上の男性サラリーマン)が譲歩してやらなければならないんだ」「(同じ条件に上がることが)可能な規則は作ってやってる。あがって来れないのは実力がないから」「こっちだって税金払ってるのになんで〇〇を優遇されなきゃいけないんだ」「ベビーカー迷惑。たためよ」というような意見に多数のいいね!がつくのを見るたびに悲しくなります。声を上げる人はいても、まだまだ実際に社会を変える力がある層までは届いていないんだなあ、と。

じゃあオーストラリアでは出来てるのか?

オーストラリアも昔は白豪主義が横行していて、2010年代にワーホリや留学をした人達の体験談の中にも「差別にあった」という人もいます(特に田舎の方では)。私自身はそうした経験はありませんが、直接の友人でも、対応の順番を後回しにされたり、態度がどぉ〜もナメられてる感じだったり、差別とまで言い切れるかわからないモヤッとした経験があるという人はいます。しかしそれでも、昔はあからさまに差別されてきた当事者たちや、それを他人事として済まさず、自分たちの社会を良くするために一緒に声を上げてきたマジョリティの白人系オーストラリア人たちの手によって、今現在の移民大国オーストラリアになっているのです。

ただし、実践しているからって誰もが完璧にできているわけじゃない。そこにはめちゃくちゃ広いグラデーションがあって、中にはC国人は嫌いだけど日本人は好きだ!とか〇〇の宗教の人だけは雇いたくない(サボり魔が多すぎて)っていう本音とか、公共の場では誰でもウェルカム!だけどプライベートでは同文化の人としか一緒にいたくない人…色々います。

大まかには、シドニーにはいくつものサバーブ(東京の〇〇区みたいなものですが、もっと1つの田舎街という感じ)があって、ここはベトナム人が多いサバーブ、ここは上海系中国人、ここは香港系、こっちはインド&ネパール系…などなど、生活圏は自然と固まっていることが多いです。しかし中国系サバーブのど真ん中に住んでいる白人系学生もいるし、昔から持ち家で住んでいる白人の多いサバーブに部屋を見つける日本人学生もいます。ちなみに、日本人が割と多めな地区(駐在のご家族とか)はありますが、ザ・日本人サバーブというのはありません。日本人はどっちかというと日本人がいないところに行きたがります(笑

同じ系統の人が多いところだと、その言語で通じるお店や母国のものを売っているスーパーがあったり便利ですが、その他のところで迫害されるということはほぼ聞きません。(というかやったら警察に通報されると思いますが)

仕事の応募で人種や年齢、性別を選考の基準にすると罰せられますし、それが理由で履歴書には写真は載せません。業務上、○語が話せたほうがいいとか〇〇の資格を持っていること、というのは当然ありますが、宗教や食の傾向などは個人の自由として尊重されていますし、レストランではベジタリアン、ビーガンメニューやハラル証明(イスラム教の方々が食べられる食品)を扱っているところも多く、多数の選択肢があります。そういう意味で、「多様性を本当に実現すること」においては日本よりはずっとずっと進んでいると思います。

これはシドニーが経済的にももはや移民で成り立っているから、数十年来英語ができない人に慣れているからというのもあるからだと思います。スーパーの店員さんは金髪のお姉さんの隣に無愛想な中国人のおばちゃんがいるし、大型ショッピングセンターではお母さんだけブルカ(目以外全てを黒い布で覆っているムスリムの衣装の一つ)のご家族とすれ違うし、電車やバスの中では全然理解できない英語以外の様々な言語が聞こえてきます。でも、だれも気にしていない。あたりまえなんです。

野本さんが「他人の間違いをほおっておく勇気」とおっしゃっていますが、間違いとは限らなくても、というか間違いってなんなのか、という話です。

日本の多様性

日本人は、人によって程度の差はあれ、他人のことをよく観察しています。それは相手の雰囲気から本音や意見を察する技術、見た目はその人の人格を表すという学校の校則による教え、場の空気を読んで行動するという訓練を幼い頃から受けてきたから。それを上手にできなくては日本社会で生きていくのはものすごく不利になるからです。サバイバル技術のようなもの。

けれど、一歩その社会の外に出たら、常識が非常識に変わることなんていくらでもあります。国内でも、田舎の閉塞感が嫌で一度都会に出てきた人がもう一度田舎のルールに馴染むのはとても難しいことだと思います。反対に、都会で忙しすぎて人を信じられなくなった人が田舎での人のつながりにホッとした、ということもあるわけで、要は合う合わないがある、一部では絶対の掟もただのローカルルールだということです。

以前の記事にも書きましたが、私は子供の頃から親や周囲に怒られる内容が疑問で、なかなかそのとおりに行動できない子供でした。特に小さい頃というのは、親と学校だけが世界のすべてであり、そこで絶対とされていることに従えなければ居場所がなくなってしまいがちです。

厄介なのは、ローカルルールの信望者は、本気でそれを世界の秩序を守る不文律だと思いこんでいるということ。だから、わりと簡単に「人としてありえない」とか、「常識でしょ?」とか、「なんでこんなことがわからないの?」とか、「あの服はないわーww恥ずww」とか言っちゃうわけです。

もちろん、私だって「こいつヤバい」「ありえない」と思うことは、あります。特に、海外に住んでいたら思ったことない人なんていないと思います。けれど、それは相手を傷つけていい免罪符じゃないし、ましてコメントやSNSで積極的に絡んでいく理由なんかにはならない。他人がどう思い、どう行動していようが、あなたが認知行動療法のカウンセラーでもない限り、更生させることではないのです。SNSで合わない人を見たら即ブロック、漫画ならそっと閲覧をやめる、現実にいたらそっと距離をとって自分から関わらない。自分とは合わない、と認めた上で相手の存在を許す(というと上からっぽいですが)こと、それが多様性です。

日本人に限るわけではありませんが、やはり相手を観察、批評する癖がついている日本人は多いな〜と感じます。それがあなたに直接的に害をもたらすことでないなら、ほおっておく勇気をもつことも重要ではないでしょうか。

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