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論説古代史「トカラ人と古代日本」  その2

(古代日本の最初の王権を確立した民族とは何か。)


写真はアルタイ山のパジリク古墳5号墳出土のフェルトの壁掛の「乗馬する男」
(紀元前4世紀)(Wikimediaパブリックドメインより)

目次
・海を渡る。
・伽羅(カラ)とは何か。
・神武は何処から来たのか。
・トカラ人と古代日本

海を渡る。

2019年のマーク・ハーバーらによるハプログループDの移動想定経路図からみれば、ハプログループDの子孫グループであるD1のグループは、アフリカを出ておよそ4万年前にチベットに辿り着き、その1部がおよそ2万年前に南シベリアのアルタイ山脈付近に達したとみられる。
トカラ人はアルタイ山脈付近を故地とし、そこから南下してトルファン盆地からタリム盆地に入ったと言われている。紀元前4世紀のアルタイ山のパジリク古墳の5号墳は4輪馬車やフェルトの壁掛けが残っていたことで有名であるが、彼らは月氏つまりトカラ人ではないかという説が発表されている。
(発掘調査者のS・ルデンコ氏や東洋史学者の榎一雄氏など)


先にも述べたが、彼らが歴史に登場するのは秦の時代、トルファン盆地を南下したトカラ人は秦の西部に達し、俊馬を秦に提供し、絹を得ていたようである。絹はシルクロードを通り、ローマの金と交換されたのである。彼らは中国側からは月氏と呼ばれたが、後に匈奴に追われタリム盆地からソグディアナに逃れ、バクトリアを占領し5つの翕侯を置いて統治したが、そのうちの貴霜なる翕侯が大月氏国(クシャーナ王朝)を築いた民族である。
ここで貴霜以外の4翕侯(休密、雙蘼、肸頓、高附)がどこに逃げたかであるが、この時代まだ漢も匈奴も健在であり、月氏としては再びタリム盆地などの東方に逃げることは考えにくい。(一部はタリム盆地方面へ逃げた可能性もあるが)常識的にはまだクシャーナ王朝の力の及んでいなかった、かっての「コーサラ国」に逃げたと考えられる。逃げた時期は紀元後1世紀の初めから中ごろであろう。「コーサラ国」は紀元前500年頃マガダ国に併合されているが、当時は都市国家の形態であるので、カニシカ王のクシャーナ王朝に占領されるまでは、アヨーデイアやシュラーヴァースデー(舎衛城)などは都市国家として存続していたはずである。この旧コーサラ国は祇園精舎もあり、仏教の聖地である関係からも、古代日本と深く関与しているのではないかと私は考えている。
コーサラ国はガンジス川の中流域にあり、中央アジアや西アジアなどと東洋を結ぶ「海の道」のルート線上にあった。ガンジス川を下ればベンガル湾であり、ベンガル湾からマラッカ海峡を通ればやがて中国に達する。
クシャーナ王朝のカニシカ王の時、旧コーサラ国は侵攻を受け、かっての翕侯であった人々はガンジス川を下り、海の道を通って逃げたと考えられる。
(4翕侯の内、どの翕侯かはわからないが、「休密」ではないかという見方がある。)時は二世紀の中頃、中国に達したトカラ人はさらに新天地を求め、韓半島南端と、倭国の日向に到着したというのが私の仮説である。その時期は2世紀末であったであろう。(拙著「月氏の末裔」を参照願いたい)


伽羅とは何か。

2世紀末、韓半島南端の金海には突如新たな国が誕生する。  
その国は「金官伽羅」と称し、中央アジアの亀茲(クチャ、くじ、くし)から来たという伝説を持つ。さらに始祖王の首露王の后はインドのアヨーディア国から来たという伝説を持つ。伽羅は5~6の集団からなりそれぞれ小国を築いたので伽羅諸国とも言うが、その中で有力な国が金官伽羅であった。
金海には亀旨峰が存在し、王妃の許黄玉が持参した仏塔も存在する。さらに
王妃の陵にはアヨーディア国のシンボルとも言うべき双魚紋が書かれているのである。現在、金海歴史地区には大成洞古墳をはじめとする多くの遺跡が
遺されているが、その遺跡はギリシャ・ローマの残影を持ち、東アジアには無い金工芸やガラス工芸が出土し、騎馬民族を思わせる優れた馬具や武器が出土している。王は西アジアの王と同じく金または金銅製の冠を冠る習慣があったようだ。
また、全く縁のない処へ王妃(姫)が嫁に来ることは考えにくい。金官伽羅王である首露王もインドと関わりのある人物であったろう。
このようなことから、金官伽羅をはじめとする伽羅諸国はインドから海の道を通ってやってきた人々であり、2世紀末という時期からみてクシャーナ王朝から追われたバクトリアの翕侯の一族と考えられよう。
私見であるが、伽羅(カラ)という名称はトカラ(吐伽羅、吐火羅など)からきていると私は考えている。(近年、伽羅の事を伽耶と呼ぶ向きもあるが、伽羅が正しい。中国の古文献で伽耶と表現している例はない。日本書紀でもすべて伽羅である。)


神武は何処から来たのか

神武もまた伽羅と同じく海の道からやってきたとみられる。何故なら彼らは日向に到着したからである。神武一族は南からやってきている。日本書紀に残る神武の記録は全て南に繋がっている。神武一行(実際にはニニギ命と呼ばれた人たち)はインドを出て、中国から台湾に渡り、南西諸島を通り北上し日向に至ったのである。黒潮に乗れば必ず日向に着く。日向に残る宮崎の高鍋藩の記録によれば慶長から嘉永年間の間に11回も中国船が漂着したとのことである。
神武が奈良の宇陀に侵攻したときに活躍した久米部はおそらく久米島からきている。書紀によれば彼らは目の周りに入れ墨があり、海人系の特徴を示している。南西諸島にはトカラ列島がある。トカラの語源については「遠い・はるかな」を意味するトハラから来たという説もあるが、トハラはトカラと同義語である。(トカラ人はトハリスタンという) 更に騎馬民族であるトカラ人は必ず馬を連れて来ている。その馬がトカラ列島に残り、久米島などの島に残る古代馬である。日向まで行った馬は後に推古帝から「駒は日向の駒」と称されるまでになるのである。
神武が伽羅と繋がる点はいくつも見られる。神武が桜井の磐余に侵攻して橿原に王朝を築くが、橿原とは「カーラ・かはら・カラ」の事であり、天香具山など香の字が着くところは伽羅と繋がる。天香子とは伽羅から来た貴人を意味する。倭国と伽羅を繋いだ海北道中を守る宗像大社は書紀において、天孫(族)を助け天孫を祀れと言っている。
天孫降臨神話においても古事記に高千穂のクシフルノタケに降りたと言っているのは亀旨峰に降りたともとれる。
日本の神話が日向から始まるのは故あることなのである。

トカラ人と古代日本

古来、中国の唐から来た舶来品は尊いもの「唐もの(からもの)」と呼び珍重された。しかしそれは8世紀以降の話であり、8世紀以前は「伽羅もの(からもの)」と呼ばれていたのである。(このことは「唐ものの文化史」河添房江著、にも述べられている。)なぜ「伽羅もの」が尊いものであり、貴重なものであったのであろうか。それは唐と同じく伽羅が尊い国であったからである。西アジアの王族の文化を持ち、ギリシャ・ローマとも交易で繋がっていた伽羅(月氏、トカラ人)は、まだ弥生の文化から抜けきらない倭国にとって憧憬の的であっても不思議ではない。ヤマトの古墳からは伽羅ものが多く出土されるようになったのはそのためである。
伽羅は韓半島南部の鉄資源を手に入れ、倭国に渡っては銅や鉄、水銀朱などの資源開発により、大きな財力を持つに至り、遂に倭国の王に推戴されるに至ったのである。神武のあと、崇神大王の国風諡号にははっきりとミマキイリヒコと書かれている。任那から来たといっているのである。当時は任那と伽羅は一緒に表されることが通常であった。(しかし伽羅から来たと書く訳にはいかないので任那としたと私は考えている。。)
この時以降、大伽羅国の皇子が倭国にやってくるようになり、任那からの朝貢が始まることになったのである。
このようにして初期のヤマト王権は伽羅勢力が占め、グレコ・バクトリアから来たトカラ人がしばらくのあいだ王権を取ったのである。伽羅勢力は応神大王の時、百済に取って代わられるが、その後もヤマト本流として残っていくことになる。

「トカラ人と古代日本」終了






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