論説古代史 「神武と日向」
神武天皇の真陵か
奈良県桜井市外山には墳丘長207mの前方後円墳がある。一帯は磐余(いわれ)と呼ばれる地域である。2023年橿原考古学研究所から推定103面を超える銅鏡が確認されたと発表されたため、俄かにカムヤマトイワレヒコ、つまり神武天皇の真陵ではないかとの意見が出てきている。同研究所は「古墳の被葬者は他の古墳の追随を許さない隔絶した王権の地位にあった人物」と
評しているが、その人物が磐余地域の王であればカムヤマトイワレヒコとするのは当然の事であろう。(神武天皇の御陵は別にあるので真陵はこちらということになる。)卑弥呼が魏王朝からもらった銅鏡の数が100面であり、国内では多くとも40面を超える古墳はないことを考えると確かに隔絶した数である。なぜ銅鏡を多く持っていることが王権の強大さを示すことになるのか、後漢の盤龍鏡には「王は鏡を作り、四方を征服し、国を安定させた。」とあり、鏡は国を治める呪力があると考えられたのである。
更に桜井茶臼山古墳の石室には200kg以上の水銀朱が使われ、これも国内では断トツの量であり、水銀朱イコール財力をあらわす時代に於いては強力な権力を持つ人物であったことも間違いないと思われる。
且つ、本古墳の築造期は3世紀後半とされ、神武が東遷した時期と合致している。いくつかの意見もあるが、この古墳を神武天皇の墓と考える意見は正しいと考えてよいと思う。ただし、神武天皇は宮崎の日向から東遷してきたのである。常識的に考えれば、この古墳に何らかの日向の痕跡が残っているはずである。
日向の痕跡
まずこの古墳の形状が柄鏡型前方後円墳であることに注目したい。
柄鏡型古墳は全国に幾つかあるが、築造時期は比較的古く、作られるようになったのは3世紀中ごろではないかと私は考えている。そしてその発祥は
日向ではないかと考えている。日向では西都原古墳群が有名であるが、他にも生目古墳群、川南古墳群、持田古墳群など注目すべき古墳群が多くある。
これらの古墳群は初期には柄鏡型か、ばち型かの前方後円墳が作られている。神武一族がどの古墳群かはわからないが、桜井茶臼山古墳が神武の墓であるとすると柄鏡型古墳をつくった部族から出たことになる。
前方後円墳がなぜこのような形をしているかといえば、円墳に埋葬した被葬者を祀るため、方墳として参列者がならぶスペースを拵えたからとしか私には考えられない。それは出土した埴輪の列の並び方を見ればわかる。神武一族はこの柄鏡型前方後円墳を磐余に持ち込んだのである。そして時代が進むにつれ参列者は多くなったので、後方墳のすそを広げ対応したのがその後の標準的な前方後円墳となったというのが私の見方である。
もう一つは墓室の作り方である。この墓室の作り方はまず地面を垂直に掘り下げて竪穴を作る。竪穴は崩れないように木材や粘土や石などで壁を作る。桜井茶臼山古墳の場合は石板で周りと底面を固めて石室を作っている。そして底面には棺が置かれて、石室は石板を並べて蓋をするというやり方である。棺は木製である。 この作り方は金官加羅国の大成洞古墳にもみられるが、中央ユーラシアのスキタイの墓制と似ている。スキタイの場合には竪穴から更に横穴を掘ったりしているが基本は同じである。そしてこの竪穴方式は日向の西都原古墳にも存在するのである。西都原13号墳は礫を並べて墓室を作りそこに木棺を置いているが、酒元ノ上横穴墓のように地下を掘って横穴を作るやり方もある。私には遠くスキタイの時代から伝わったものでそれが金官加羅国や日向(吉備にもある)に残ったと見える。
神武一族がこのやり方を採用したということは日向、加羅にもつながり、遠くスキタイにもつながる歴史を持っているということではないか。
(補)宗像神社の存在
桜井茶臼山古墳の空濠の外側に宗像神社があり、その事と茶臼山古墳との繋がりが云々されているが、もし繋がりがあるとすれば、宗像三女神は天神から「天孫を助け、祀れ」と言われているので、宗像神社が天孫の一族である神武の墓のそばに作られたのかもしれないという推測はできる。
しかし、もしそうであれば宗像大社はこの墓が神武の墓であることを知っていたことになる。