『読みたいことを、書けばいい。』〜「文字がここへ連れてきた」は本当〜
田中泰延さんの著書『読みたいことを、書けばいい。』を読んだ。
もう多くの人が本書の面白さ/素晴らしさについて語っている。Twitterで「袋とじ」「ヌードグラビア」「自己啓発ダイエット本」など、高度な情報戦もとい大喜利が繰り広げられている状況は、見ているだけで楽しい。
本書はめちゃくちゃ読みやすい。空きっ腹で酒を飲んだら喉から胃にすーっとアルコールが落ちていく心地よさのように、文字がすーっと、気持ちよく頭に入ってくる。そして、読み終われば何かを書きたくなり、書くのが楽しくなる。
そう、書きたく……なるのだが、私は読了後、書くことに対してすっかり自信がなくなってしまった。だって、これすんげぇ本ですよ。勢い敬体になったけど、めちゃくちゃ難しいことがめちゃくちゃわかりやすく書いてあるんだから。少しでも文章を書いたことのある人なら、本書の凄まじさがわかると思う。
一文一文の裏には、著者のとてつもない知識と思考と経験が隠れている。わけがわかるのにわけがわからない。というのは、わけがわからないものより遥かに恐ろしい。底なし沼を覗いているように。だが、そんな苦悩はどこへやらと、縦ノリでも横ノリでも、悪ノリでもない、泰延テンポとしか言えない圧倒的なグルーヴ感で文章は進んでいく。スティーリー・ダンみたいだ。
なので、読んでいる最中は「ものすごく面白いのだけれども、どんどん書くことに対して自信がなくなっていく」という心理状態に陥り、笑いながらも「こんなすげえ文章書けねえですよ」と半べそをかきつつ読み切った。
読み終えてからは「これから何を書くのか」をずっと考えている。正直、一瞬筆を折ろうかとも思った。私はライター/デザイナー/バーテンダーの三足の草鞋なので、要は逃げ道をいつでも用意している。
でも、やっぱり書こうと思った。なぜか。本書で語られる「文字がここへ連れてきた」のとおり、書き続けていると何かが起こるのは本当だからだ。
「文字がここへ連れてきた」は本当
「文字がここへ連れてきた」については、以下のコラムを参照してほしい。
私は2013年に、はじめて文章を書いてお金をもらった。それから6年、さまざまな媒体に寄稿をしてどうなったか。完全なる無風である。
ちなみに、現在寄稿している街角のクリエイティブには、泰延さんの映画評を読んで応募した。テキストサイト全盛期のようなフォント弄り芸と、圧倒的な筆力に憧れたからだ。あと「長文でもOKそうだった」のも大きい。
フォント弄りについては、村上龍の『69 sixty nine』にも大きく影響されたそうで、テキストサイト以前のルーツを調べることを怠った私は「無人島の大発見」という故事に出てくる少年と同じであったことを、後日思い知らされることとなる。
で、街角のクリエイティブでも、かれこれ4年ほど寄稿している。どうなったか。完全なる無風である。だから、はじめて「文字がここへ連れてきた」という文字列を見たときには「本当かねぇ」と訝しんでいた。
だけど、昨年くらいから少しずつ「文字が連れていってくれる」ことが増えてきた。
まず、試写状が来る
まず、ある日
「あなたの書いたコラムを読みました。つきましては今度こんな映画があります。よろしければお越しください」
といった内容のメールが広報担当の方から届き、家のポストには試写状が投函されるようになった。
ときに『読みたいことを、書けばいい。』には「付録」がついており、そこには切り取って永久保存しておきたいほどに有用な情報が書かれている。だから私もそれにならって、有用かもしれないことを、ちょっとだけ書こうと思う。
映画のことを書いて試写に行ってみたい人は「小さい映画」を狙うといい。今「狙うといい」と書いたが、あからさまに狙っていくのは筋が悪いので、あくまで「自分が気に入った映画」や「気になる映画」をレビューしたり、紹介したりするのがいい。作品に対する敬意は本当に大事だ。
大作映画はプロ・アマ含めて多くの人が批評や感想を書く。媒体もいろいろで、つまり競争相手が多いし、見つけてもらえる可能性が低い。
その点、公開規模が小さい映画の感想や紹介は関係者の目にとまる確率が高くなる。事実、試写のお誘いは小品の紹介記事を読んでくれた方から来た。そしてそのうち、なぜか大作映画の試写状も来るようになる。現に来てる。
パンフレットの寄稿依頼も来る
そして、先日
「あなたが書いた文章を読んだ。同じ監督の特集上映を今度やるので、パンフレットに寄稿して欲しい」
との依頼が来た。監督の名前はヤスミン・アフマド。あの傑作『タレンタイム〜優しい歌』を撮った人である。
彼女の没後10周年ということで、7月20日〜8月23日まで、シアター・イメージフォーラムで計7本の長編がかかる。その特集パンフレットだ。
依頼内容が書いてあるメールを見たときは、本当に嬉しかった。「寄稿できるから」ではない。大好きな映画について私が書いた文章を、誰かが読んで、「コイツに書かせてみよう」と思い、文章を考え、わざわざキーボードをタイプして連絡をくれたからである。その心意気が嬉しいのだ。
無風ではなかった。バタフライエフェクトはあるのだと思った。風が吹けば桶屋が儲かるのだと思った。両方ともちょっと違うような気もするが、ものを書いていて、ずっとひとりだと思っていた。その孤独が少しだけ和らいだのは本当だ。
文字はさらに私を連れて行く
『迷走王ボーダー』という漫画がある。私のバイブルとも言える作品で、昨年亡くなってしまった狩撫麻礼が原作、たなか亜希夫が画を担当している。
その狩撫麻礼の追悼本『漫画原作者・狩撫麻礼 1979-2018(仮)』が、7月23日に双葉社から発売される予定となっている。
狩撫麻礼にゆかりのある漫画家や編集者など、錚々たる面子が画や文章を寄稿しているが、私もなぜか追悼文で参加している。
これは完全に「文字がここへ連れてきた」案件で、私は田中先生とよく飲み屋で一緒になる。その日も普通に飲んでいたところ
「こんど狩撫の追悼本が出るんだけど、広大くんなんか書く?」
と言われ、とてつもない速度で「やります」と返事をしたら実現してしまった。
この件は、嬉しいというよりは、今でも本当に「載るのか」といった気持ちのほうが強い。で、喜ぶ理由はここでも「寄稿できるから」ではない。
恥ずかしくて「読んでくださいよ」なんて言ったことのない私の文章をたなか亜希夫が読み、たまたまバーで隣になったときに「追悼本の文章、コイツに書かせてみよう」と思いついてくれて、「なんか書く?」と言葉を発し、何の得にもならないのに編集者に話をつけてくれた。その心意気が嬉しいのだ。
無風ではなかった。バタフライエフェクトはあるのだと思った。風が吹けば桶屋が儲かるのだと思った。両方ともちょっと違うような気もするが、孤独がまた少し和らいだ。「書いててよかった」と心から思った。
まったくもって無名・無風の私にもこんなギフトがやってくるのだから「文字がここへ連れてきた」は本当だ。
宣伝終了
「文字がここへ連れてきた」を説明するのにちょうどよかったので、興行収入や実売部数を雀の涙程度でもあげるべく宣伝も兼ねて書いたが、「文字がここへ連れてきた」案件はほかにもたくさんある。
昨年の
だってそうだし、
だってそうだ。Netflixイベントのときは泰延さんにお会いできただけでなく、西島編集長にはじめて挨拶できたし、藤井亮さんや加藤順彦さん、服部タカユキさん、シーズン野田さんなどなど、たくさんの人とお話できて楽しかった。何よりケータリングのローストビーフが美味かった。タダ飯が食えただけでも、何かを書いてた甲斐があったってもんだ。
『君が君で君だ』の試写会では、再び泰延さんだけでなく、明日のライターゼミ生の方々や阿部広太郎さんたちと出会うことができた。試写後の飲み会の記憶は曖昧だが、面白かったって思い出だけでも、何かを書いていた甲斐があったってもんです。
これだってそうである。前田将多さんの『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』を読んでトークショーに出かけ、以後スナワチのポップアップストアが開かれるたび、顔を出すようになった。そこでも、上田豪さんや月瀬りこさん、伝説のモーメント職人であるkayaさんなど、会いたかった人たちに会うことができた。それだけで、何かを書いていた甲斐があるってもんよ。
よく考えれば、どれもこれも「文字がここへ連れてきた」ことばかりである。書いてて気付いた。とんでもなく幸せで、素晴らしいことじゃないか。
再び本書の話に戻る
何度も読み返す本がある。
今、ざっと目についた作品を挙げると
中島らも『今夜、すべてのバーで』
筒井康隆『着想の技術』
ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』
三島由紀夫『命賣ります』
P・ワイリ/A・ゲニス『亡命ロシア料理』
前田将多『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』
町田康『外道の条件』
アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』
菊地成孔『歌舞伎町のミッドナイトフットボール-世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間-』
チャールズ・ブコウスキー『町でいちばんの美女』
柳家小三治『ま・く・ら』
などがあるが、これらは作業机の左側、つまり手に取りやすい位置に並べられている。
そして
『読みたいことを、書けばいい。』
も、またそのポジションに並べられた。きっと、数日後にまた読み直すことになるだろう。そうしたら再び、笑って、自信を失って、書くのが嫌になって、でも、やっぱり「書くこと」をはじめるのだ。
この「書くこと」は、本書を読む前と後では明らかに違った意味をもっている。
正直、いつかは「マジで書くか、書くことを辞めるか」を選ばなければいけないと考えていた。『読みたいことを、書けばいい。』を読んで答えが出た。恐ろしくて仕方がないが、マジで書く。
本コラムは、書評のフォームを借りた決意表明である。そして、本書が忌避している「自分の内面が語られる」失敗作である。だが、失敗作はこれで終わりだ。