ほらね、怖くない。
ディズニー&ピクサーの最新作「私ときどきレッサーパンダ」を見ました。作品の中では「親に反抗できない子供」「人間の持つ凶暴性や本能」「成長期の身体の変化」など、どれも少し難しいテーマを扱っていたのですが、1時間半のアニメーションとして綺麗にまとまっていて、なおかつ小学生の子供たちが見ても、24歳の僕や親世代が見ても楽しめる内容になっていたのはさすがディズニーのクリエイティブだなと思いました。
子供向けのアニメや映画(ディズニーやドラえもん)の良さは大人になってからの方がわかるような気がするのですが、百人一首の魅力に気づき始めるのも歳を重ねてからだと思うので、大人の学び直しの重要性が問われるのも納得してしまいます。
映画のタイトルにもある通り、主人公の女の子は感情が昂るとレッサーパンダの姿に変身してしまいます。それも少しサイズのでかい(キティちゃんのポップコーンマシンよりもひと回りくらいでかい)レッサーパンダに姿が変わります。ちなみにレッサーパンダの「レッサー」とは白黒のジャイアントパンダよりも小さいという意味らしくて、元々はレッサーパンダが一般的にパンダと呼ばれていだそうです。
少し脱線しますが、卒業も間近に控えた高校3年生の冬の話をします。僕の通っていた高校はキリスト教の教えを大切にするミッション系の学校だったので毎日昼の礼拝があり、その日は僕のクラスの担任をしていた先生が礼拝で話をする番でした。理科を担当していた先生が話しくれた内容は、パンダは元々肉食の動物だったが、食物連鎖の中で笹を食べて生活することを余儀なくされた。しかしパンダの身体はほとんど笹からエネルギーを吸収できないため、笹を食べて1日中過ごしている、というものでした。ただどうしてもこの話のオチが思い出せなくて、卒業してからも大変なことがあるだろうけどパンダみたいに変化に対応しよう!だったのか、敵が現れたら逃げてもいい!だったのか全く思い出せず、あんな可愛いパンダも考えてみたら熊なんだよなと思ったことを覚えています。
話を戻しますが、ここ数年「論破する」ということが流行っているように感じます。僕自身も相手を論破したときの快感や心地よさを理解することができますが、相手を言い負かしたい、圧倒したいという感情はどこからくるのでしょうか。冒頭にもテーマとして挙げた動物としての本能だと解釈することもできますが、この本能は生きるために備わっている凶暴性が防衛本能としての役割を果たしていると捉えることもできます。即ち表裏一体です。もし仮に防衛本能だとすると、一体何から大切なものを守ろうとしているのでしょうか。自然の脅威でしょうか、人の悪意でしょうか。誰が何を傷つけようとしたのか、それとも受け手の勘違いなのかはわかりませんが、世界から争いがなくならないのは人間の凶暴性と防衛本能が原因のような気もしてしまいます。
僕は戦争に反対です。暴力を用いて人を傷つけることを許してはいけません。しかし人間は競争することを嫌ってはいません。企業同士の競争、スポーツの大会、テストの点数、ディベートなど、これらは平和と安全を手に入れた一部の人間が、持て余した凶暴性を発散するために生まれたものではないでしょうか。また自分の狡猾さや怒りを乗り越えようとして生まれたのが宗教や信仰、仏教の悟りなのかも知れません。繰り返しますが、僕は戦争に反対です。武道を15年近く嗜んでいますが、本来、剣や弓は命を奪うための道具でした。それを武道やスポーツという形に昇華していっただけで、命を奪う危険なものであることを忘れてはいけないと思います。
暴力性という本能も食欲や性欲と同じ自分の一部分として受け入れて、うまく付き合っていく必要があります。
大切なものを守るために力を使える人間になりたいと願うのと同時に、相手を敵だと勘違いしないための学びを続けていきたいと思います。
(おわり)
おまけ
聖書から引用するとすれば、最初の罪はカインがアベルを殺したときでしょうか。それともアダムとイヴが蛇に唆されたとき、人間が嘘をついてエデンの園から追い出されたときでしょうか。神は自分に姿を似せて人間を形造ったと聖書には記されていますが、神が創った人間が過ちを犯すのだから、人間が作ったシステムがエラーを起こすのは当たり前だよな、とSEの僕は少しだけ言い訳をしてしまうのです。
僕は神様と占いをあまり信じていませんが、神様と占いを信じる人を信じていますし、神様がいない世界よりもいる世界の方が面白そうなので、神様がいる理由はそれくらいでいいと思っています。
今回のタイトルはキツネリスがナウシカの指を噛むあのシーンです。