子供が教えてくれた生き方
小学生の頃、授業と授業の合間には必ず「業間休み」があった。
2時間目が終わると、教室を飛び出し、体育館や校庭へと駆け出していったものだ。友達とサッカーやバスケットボールをしたり、ときには何もないところからオリジナルの遊びを考え出して、全力で楽しんでいた。一見、短いと思える時間の中で、私たちは工夫し、頭を使い、身体を動かし、とにかく遊びに没頭していた。
その頃の遊びの記憶は鮮明だ。どんな状況でも自分たちでルールを作り、ゲームを始め、最後まで楽しむ。失敗しても笑い合い、すぐに新しい方法を試す。たった30分か40分という時間でも、その一瞬一瞬を最大限に活用していた。あの頃の私たちは、「時間が足りない」などと嘆くことなく、今ある時間をどう使うかを全力で考えていたのだ。
一方で、今の自分を振り返るとどうだろう?
そして周りの大人たちを見るとどうだろう?
私たちは「時間がない」という言葉を口癖のように使い、何も挑戦しないまま日々を過ごしているのではないか。例えば、スマホを何時間も無目的に触り続けたり、何かを始めることさえ億劫に感じたりしていないだろうか。
「少しやったところで何が変わるんだ?」
「忙しくてそんな時間ないよ」
そんなことを言い訳にして、自分の可能性を試すことも、新しいことに挑戦することも避けてしまっている大人が少なくない。
だが、そんな大人たちの姿を、小学生だった頃の自分が見たらどう思うだろう?あの頃の私たちは、何かを試す前から「無駄だ」などとは決して思わなかった。むしろ、どんな状況でも工夫して楽しむことを大切にしていた。
ここで考えたいのは、「小学生の1時間」と「大人の1時間」の違いだ。
どちらも同じ1時間であるにもかかわらず、どうしてその価値が違って感じられるのだろうか。
小学生にとっての1時間は、無限の可能性を秘めた時間だった。何をしてもいい、どう楽しんでもいい時間だ。その中で、彼らは全力を尽くす。サッカーをしても、ただの遊びではない。ゴールを決める喜びや、チームで協力する楽しさを味わうために必死だ。ルールのない遊びでも、創造力を駆使して新しいルールを作り、それを実現させるために試行錯誤を繰り返す。
つまり、1時間という限られた時間を、目の前のことに集中し、全力で生きる時間として使っているのだ。
一方で、大人の1時間はどうだろう。仕事が終わってからの1時間や、休日に与えられた1時間を思い出してほしい。多くの大人は、スマホやテレビの前でただ時間を流し、自分で何かを考えることもせず、受動的に過ごしているのではないだろうか。その1時間の中で得られるものは何か?新しいアイデアや学び、充実感、達成感はどれだけあるだろう?
大人は「効率」を求める傾向が強い。「どうせやるなら結果を出したい」「これをやって意味があるのか?」と考えるうちに、何も始められなくなることも少なくない。
だが、子供の頃はどうだっただろうか?結果を求めるよりも、まずやってみることを楽しんでいたはずだ。てか、そもそも何も考えていなかったかも。
大人と子供の違いは、時間の長さや質の違いではなく、時間の「使い方」にある。子供は限られた時間の中でも、最大限に自分を表現し、楽しむ方法を知っている。一方で、大人はその方法を忘れてしまったかのように、ただ時間が過ぎていくのを見つめている。
もちろん、大人には子供にはない責任がある。仕事や家庭、社会的な義務などがある中で、全てを子供のように自由に生きることは難しいかもしれない。
しかし、だからといって、「挑戦しない理由」にはならないはずだ。
むしろ、大人こそが限られた時間をどう使うかを真剣に考えるべきではないだろうか。
たった30分でも、スマホを置き、自分で考え、何か新しいことを始める。それがどんなに小さなことであっても、子供の頃のように工夫し、全力で取り組むことで、1時間はもっと価値のある時間に変わるはずだ。そして、その積み重ねが、日々の充実感を生み出し、未来の可能性を広げるのではないだろうか。
小学生の頃のように、ただ目の前のことに全力で取り組む生き方。
それを思い出すだけで、私たちの1時間は驚くほど豊かなものに変わるだろう。時間は平等に与えられている。どう使うかは自分次第だ。子供たちのように、全力で今を生きる大人が増えれば、社会全体がもっと明るくなるのではないだろうか。
あなたの1時間は、どのように使われているだろうか?
最後まで読んでいただきありがとうございます!
今日も幸せな1日にしましょう☺️