To Live To Die
知人の訃報を知った。
知人とは大学の先輩である。
とはいえ6歳年上で、学生時代に直接のお付き合いがあったわけではない。
卒業してからだいぶ経って軽音楽部OBという肩書きのもとに、ひょんなことから酒の席で知り合ったのが切っ掛けだ。
大酒飲みで気さくで優しく、その後Facebookで友達登録させてもらったあとにも、同じ楽器を弾いているからか、メッセンジャーで音楽やベースに関する質問なんかを気軽に投げてきたり、数年に一度開催される軽音楽部OBセッション大会なるイベントとその後の打ち上げでご一緒させていただいたりした。
ひとは生まれたからにはいつか死ぬ
そんな当たり前の理《ことわり》を、頭で判ってはいても、やりきれぬ感情に心がかき乱されることが何度もあった。
先輩は59歳。ギリギリではあるが、同じ年代だ。
大昔の基準で言えば長生きなのだろうが、少なくともいま現在の日本では、「早くして亡くなった」部類に入るのではないだろうか。
そんな人の死は、同時に「お前はいつもでも安穏と生きていられると思うか?」という問いにも思えてくる。
そう、来年生きている保証なんてどこにも無いし誰もしてくれない。
そういう意味では、常に「死ぬ」ということが生きていく上で常にどこかつきまとう年齢になってしまったのかもしれない。
ちょっと待ってよ、まだ死にたくないんだよ。
やりたいことがまだあるんだよ。
だって、あの映画も見てないし、あいつの新譜もそろそろ出るらしいじゃないか。
来日するって話もあるじゃ無いか。
そんな事はまだいいよ、ウチのカミさんにまだ言えてないことが沢山あるんだよ。
ありがとうとゴメンなさい。良いとこ半々くらいかもしれないけど!
愛犬のパンチとだって、もっと遊んで色々な所に行って、色々な事をしたかったのに!
もうタイムアップなのかい?
そりゃないよ!
今際の際にこんな事を思いながら生命活動を終えるのだろうか。
そもそも、そんなエモーショナルなことを考える余裕すら与えられずに、スイッチをOFFにするかのように意識もブラックアウトしてしまうのだろうか?
まだ死んだことがない以上、想像の域を出る事はない。
せめて「死」を考えることが、すなわち「生」を感じることと思いながら、故人の冥福を祈ることしかできない。
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