キューバ紀行
個展《Narrative Landscape》に寄せて
@Clear Gallery Tokyo https://cleargallerytokyo.com/kodai-kita-2024
古本との再会
最近、スタジオの本棚の片隅に置いてあった古本をなんとなく手に取ったことから、今回の作品制作は始まった。
それは、数年前にカリブ海に浮かぶ島キューバを旅した際に、道端で購入した一冊の古本であった。
その古本をパラパラとめくっていたら、ところどころ鉛筆で線が引かれていているのに目が留まった。
古本を買ったら前の持ち主が引いた線が残っていることはよくあるが、これがキューバで買ったということもあってなかなか貴重に思えて、どんな人がなぜそこに線を引いたのかということが急に気になり始めた。
紙が痛んで黄ばんできているその本は冊子くらいのサイズで、引かれた線はBくらいの濃さだろうか、筆圧も強めでしっかりした黒い線である。
サンタクララという町の路上で古本市みたいに雑多に置かれていた中で、なんとなく手に取ったその本はモノクロの古い写真付きでスペイン語で書かれており、レトロな感じが気に入ったのか、数ペソで買ったというぼんやりとした記憶がある。
しかしメキシコに長期滞在していたのでスペイン語は多少勉強していたが、その本は読まれる気配のないまま帰国後本棚の隅っこに入れられた状態だった。
線が引かれている箇所を少しずつ翻訳していくと、その本は、1961年という時代のキューバの歴史について書かれており、その数年後に発行されたキューバ人ジャーナリストが著者の書籍だった。
1961年といえば、1959年にキューバ革命が起こり、社会主義国としてカストロ政権が舵を取り始めた時期で、1962年には二つの大国アメリカとソ連が「キューバ危機」を引き起こした、まさに冷戦時代の象徴的な出来事があった一年前の年である。
そのジャーナリストは、そのような緊迫した時代背景の中で、これまでアメリカの一方的な半植民地的な政策によって虐げられてきた多くのキューバ人や農村の貧しい生活について、若き指導者カストロが掲げたすべての人が平等であるべきという考えのもと、農地改革や教育改革が行われ、全国の識字率が向上していくなど、国民の視点からその様子を描いている。農村に建てられた学校で、初めて誰かに手紙を書くという少女の写真が印象的だった。
革命後、隣国アメリカには国交を断絶され、窮地に立たされたキューバはソ連からの支援を得るために社会主義という体制に移らざるを得なかったにせよ、カストロやゲバラが持つ慈愛と不屈の精神で実現させたすべての国民に対しての教育や医療の無償化といった、世界でも類の見ない社会主義国として現在もキューバは成立している。
1961年という時代は、そういった新しい時代の夜明けのような、革命直後の農村の教育が変わり始める時期でもあり、その理念について書かれたいくつかの箇所に線が引かれている。
なぜ今になってキューバの歴史やその本に引かれた線が気になったのかがよくわからないが、ぼくがキューバを旅したのは、2017年2月の2週間ほどで、ちょうどカストロが亡くなってから一年後だった。
当時のアメリカはオバマ政権で、長年断絶していたキューバとの国交が回復し、これからキューバ社会は変わっていくだろうという時期で、ハバナの街中にマクドナルドやスターバックスが建ち並ぶ前に社会主義国キューバを見ておきたいと思い、メキシコシティから飛行機に乗ったのだった。(その後トランプ政権に変わり、キューバとの国交は雲行きが怪しくなってきている)
ぼくは、本に線が引かれている箇所を読みながら(詳しくはわからないまま)、自身のキューバの旅の記憶をたどろうとした。
それは、あまりにも「わからない」、「違いすぎる」と感じたこの小さな島国に対して、何か「近さ」のようなものを探していた時間だったように思う。
どこの誰がなぜそこに線を引いたなんて知る由もないが、他者の視点とともに自身の旅をたどることは、本の中の線と旅の中の風景の線を重ねながら、そこに横たわる漠然とした距離感や、その間にある境界線をたどるような行為につながるのかもしれない。
しかしそれは、様々な人が自らを主体にして語られる場所の物語に再構成し、風景の物語として見えない関係性をともに編み込んでいくということにならないだろうか。
同時に、他者と出会うことで新たな道が続いていく旅そのものの性質や、不確定的な未来へ進むことの可能性について、作品制作においてもそれらがどのような影響や効果があるのかを探りつつ、本に引かれた線と自身の旅の記憶を交差させながら、紀行文としてここに記述したい。
ハバナ
2017年2月某日、カリブ海の青い海を上空から眺めながらハバナのホセ・マルティ国際空港に降り立った。
空港の外へ出ると、照りつける太陽の光と高い湿度にくらくらと眩暈がした。標高の高い乾燥したメキシコシティとは違い、まさに南国の気候である。
まずやることは通貨の両替だが、当時のキューバには通貨が二種類あり、外国人観光客用のCUC(クック)と現地の人用のCUP(ペソクバーノ)とに分かれていた。(ややこしいので説明は省くが、レートを換算するとめちゃめちゃな設定だった)とりあえずメキシコペソから両替ができたので、キューバ通貨の仕組みをなんとなく理解して、市街地に向かうタクシーでハバナ市内へ向かった。
首都ハバナの旧市街地は、スペイン統治時代のコロニアル建築が建ち並び、海風で風化したピンクやブルーなどのカラフルな外壁がカリブ海の異国情緒を醸し出している。人通りの多い広場では流しの音楽家がギターを軽快に弾き、その周りを陽気な雰囲気に包んでいた。
路地に入ると、ベランダには所狭しと洗濯物が干され、バナナなどの果物が積まれた屋台の周りに近所の人が集まって談笑していて、そこに住む人たちの生活が垣間見える。
とにかく暑いので、多くの人がTシャツかタンクトップ、ビーチサンダルなど着飾ることもなくラフな格好をしている。
日本にもこういう時代があったのだろうかとこの光景を見てなんだか時が止まっているようにも感じられた。
キューバ人は、スペイン系の白人、アフリカ系の黒人、そして混血と、大きく分けて3種の肌を持つ人たちがいるが、アジア系の人たちも少なからずいるようだ。
社会主義である国の政策として最低限の生活は配給などで保障されているので、副業の一部緩和ということもあり近年格差が生まれつつあるものの、噂通り治安はとてもいいように感じたし、人種による差別のようなこともなく、肌の色が何色だとしても自然体で振る舞っている光景がまさにキューバという感じがしてとてもかっこよく思えた。(肌の露出が多いので余計にそう感じたのかもしれない)
海岸の方へ歩くとマレコン通りに出る。
カリブ海に面した防波堤があるマレコン通りは、頻繁に高い波が打ち付け、観光客たちが嬉しそうにしぶきを浴びている。この場所は恋人たちが愛を語らう場所でもあり、同時にその先にあるフロリダ、アメリカへの亡命を決意する場所でもある。
これまで、反革命派などのキューバ人たちが手作りのボートで命懸けでこのわずか150kmの海を渡り、数えきれないほどの人がこの海に沈んだそうだ。
街中の至るところで、“Patria o Muerute” と書かれたスローガンをよく目にするが、「祖国か死か」という意味のこの標語は、古本に線が引かれた箇所にも、少年が拳銃を持った写真にその言葉が添えられている。独立独歩の社会主義国を目指したキューバが掲げたあまりにも有名なスローガンである。
マレコン通りから見えるカリブ海の水平線を眺めながら、ぼくは何を思えばいいのだろうとその場で考えこんだ。
小さな屋台でキューバサンドと一緒にコーラを注文したときのことである。
ぼくはメキシコでの生活の癖で普通に「Me da un Coca, Por favor.(コカコーラひとつください)」と若い女性店員に伝えたら、「コカはない、コーラならある。」と少しむっとした顔をされたことがあった。
メキシコでは注文の際の決まり文句だったので、一瞬「え?」と思ったが、「あっ!そうか…」とすぐに理解した。キューバには当然コカ・コーラはなく、キューバ・コーラはあるとのことだったのだ。
お姉さんに申し訳ないと思いながら注文し直したが、味はほとんど同じで、キューバコーラの方が少し甘く感じた。
商店に入ると、本当に物が少ないのには驚いた。商品棚に食品や生活用品などがポツンポツンと数個置かれているだけで選びようもないし、そもそもほとんど何もない状態だった。
仕方がないので、食事は安く済ませるために屋台のサンドイッチやCUPが使える大衆食堂みたいなところでしのいでいたが、味付けの濃いメキシコから来たからだろうか、美味しくないことは全然ないが、味が薄く、とにかく素朴な感じで、お腹もいっぱいになったことはハバナ滞在中ほとんどなかったように思う(ぼくが美味しいものに出会えなかっただけだと思うが)。
配給があるとはいえ、地元の人たちは大丈夫なのかと心配をしてしまった。
Wifi事情にも触れておこう。
キューバのネット環境はとにかく不便の一言で、Wifiスポットがあるホテルのロビーや公園などで、一時間制限のIDが書かれたカードを購入して初めてネットにアクセスできる。
ルーターの持ち込みも制限があり、当然空港の税関で調べられる。(2017年のことなので現在はどうなっているのかは分からない)
地元の若い人や観光客たちが夜な夜な公園に集まって、1時間という制限時間内に必死でスマホをいじっている光景はキューバの蛍族のように思えた。
ぼくもちょうどその時期に日本での公募展の結果が出るタイミングだったので、何度もWifiスポットに足を運びその都度カードを買ったのを覚えている。(おそらく日本円で1000円くらいだったと思う)
地元の人たちが普段どのようなネット環境で生活しているはよくわからなかったが、おそらく観光客と同じように時間制限やアクセスの際の課金システムみたいなものがあるのだろう。国に情報管理されているのは間違いなさそうだった。
不思議だったのは、そのような国の体制なのに、カストロやゲバラといった今のキューバを築いた英雄たちに対して国民が大きな尊敬の念を抱いているのは確かだったと思う。革命初期を実際に経験した世代は特にそうなのだろう。しかし、若い世代は果たしてどうなのだろうか。何を思っているのだろうか。
物資不足や移動、情報の制限など、現代キューバ人は自国や隣国アメリカに対してやはり複雑な思いがあるのだろうと想像せざるを得なかった。
トリニダー
ハバナで4泊ほどしてから、乗合タクシーで約5時間かけてトリニダーというキューバ島中部に位置する町に移動した。
ここは、ハバナとは反対の南側のカリブ海に面した古い港町である。ハバナよりまた一段と暑い。
トリニダーに来たのは、ロス・インヘニオス渓谷のサトウキビ畑が見たかったからだった。
トリニダー郊外に広がるその渓谷は、18世紀末から19世紀にかけての植民地時代に大規模なサトウキビ農園だったところで、当時アフリカから強制的に連れてこられた多くの奴隷たちが働かされていた。サトウキビを運ぶための蒸気機関車が観光用としてトリニダーからその渓谷へ出ていたので、それに乗って見に向かった。
水と簡単な食料だけ買い込んで駅へ向かい、朝8:00頃に出発する蒸気機関車に乗り込んだ。まばらだが何人かの観光客が乗っていて、ほとんどはヨーロッパ系の人たちだったと思う。
乗り心地は案外快適だったので、車窓から見えるキューバの田舎の風景をカメラに収めながら汽車の旅を楽しんだ。長い間人の手が入っていないような荒涼とした大地が続いたが、途中の駅での停車を繰り返しながらしばらく進むと、高い塔が建っているのが見えてきた。
黒人奴隷たちが働かされていた、かつてサトウキビ農園があったマナガ・イスナガの塔である。高さ50mほどの古い塔は、奴隷たちの監視のために建てられ、農園主側はその塔の上に立ち、そこから鳴らす鐘で彼らに合図を送っていたそうだ。
今でも登れるとのことだったので、不安定な階段を登って塔の一番上までいくと、渓谷に広がる緑の景色が一望できた。
どのくらいの人数の奴隷がここで働かされていたのだろうかと塔の上から想像したが、観光用に整備されていたからなのか、サトウキビは現在作っていないからなのか、記憶が消されたようにその風景からは歴史の面影があまり残されていないように感じられた。
塔から降りて露店の土産物を物色していたら、その周りを申し訳なさそうにうろついていた痩せこけた黒っぽい犬だけがどこか印象に残った。
汽車に戻り、マナガ・イスナガを後にして、どんどん小さくなる監視塔を眺めながら、長年キューバを植民地支配し続けてきた大国との関係をその塔は、汽車でしか行けないような辺境の地で静かに象徴しているように思えた。
車窓からは、畑仕事をしている人や馬車で何かを運んでいる人が時折見える。
「どこまでも続く長い道を騎手が通る」と、1961年という時代の節目に写真付きで書かれたその心象的な文章に線が引かれているのを読んで、そのときのトリニダーの風景を思い返した。
それはどこかで見た風景として、おぼろげだけど記憶の中に鮮明に残っている。
トリニダーの宿のことも追記しておこう。
宿の主人がとにかく明るくお調子者だったのをよく覚えている。
ぼくがスペイン語を少し話せたのが嬉しかったらしく、いろいろ話しかけられたのだが、ぼくはそこまで話せるレベルでは全然なくて、しかもキューバ人のスペイン語はメキシコ人でもわからないぐらい聞き取りづらい発音だそうなのであまり要望には応えられなかったと思うのだが、とにかくお構いなしに話してくる楽しいおっちゃんだった。
キューバ政府は一般の仕事とは別の副業として、“Casa Particular(カサ・パルティクラール)”と呼ばれる民泊の営業を認めている。個人宅の一部の部屋を観光客用に開放しており、ホテルに泊まるより格安で泊まることができるので旅行者にはありがたいシステムなのだが、そもそもネットがほとんど使えないので宿の予約もできず、その町に着いてから「今日泊まれますか?」といった具合にカサを探す以外選択肢はないという感じだった。
なので、どこのカサに泊まるのがいいのかは旅行者同士からの情報や、カサによく置いてあった過去の旅行者が今後の旅行者のために旅のアレコレを書き記した「旅のノート」から情報を得るしかなかった。
当然日本語が書かれていれば日本人が集まりやすく、カサで何人かの日本人旅行者に会ったが皆キューバ旅の不便さを思い思いに楽しんでいるようだった。
このトリニダーのカサに置いてあったその「旅のノート」に、「ホセは甘い顔をするとすぐにセクハラをしてくるので注意」と女性の字で書かれているのを見て、やっぱりと思ってしまった。
トリニダーを出る朝、ホセとの別れ際に「良い宿でとても楽しかった。日本の友達にもこのカサのことを紹介しておくよ」と言ったときのホセの嬉しそうな顔と、前の晩にホセの奥さんが出してくれたロブスターの味は今でも忘れられない。
サンタクララ
トリニダーのバスターミナルからビアスールというなぜか中国製のバスに乗り、次に向かったのはサンタクララという町だった。ここはゲバラの霊廟がある町で、キューバ革命やゲバラに関心がある人なら必ず訪れるような場所である。ボリビアで亡くなったゲバラの遺骨を革命の拠点のひとつとなったこの町へ移動させ、1997年に霊廟に納骨されたそうだ。
ぼくはゲバラに関心はあったもののハバナの革命博物館を観ればいいかぐらいしか考えておらず、当初の旅の予定に入っていなかったのだが、トリニダーで会った日本人旅行者に「サンタクララよかったよ」と教えてもらったこともあり、ハバナへ戻る途中でこの町に立ち寄ったのだった。
サンタクララのバスターミナルに昼前に到着し、すぐに良質なカサを見つけられたので荷物を置いて早速その霊廟に向かった。(実際値段の割に部屋も綺麗で食事もすごく充実していた)
何度も言うが、とにかく暑いので日陰を探しながらゆっくりと歩くしかない。急いでも仕方ないし、ちょっとの移動でもなるべく省エネで動かないと高い気温と湿度ですぐにバテる。暖かい国の人はのんびりしていてあまり働かないとよくいうが、働けないの間違いだろうとツッコミを入れたくなる。
暑さに茹だりながらたどり着いた霊廟は、意外にモダンな建物で、広い敷地の中に静かに建てられていて、遠くからでも見える巨大なゲバラの銅像が世界中から訪れる人々を迎えているかのようだった。
霊廟の中は撮影禁止で厳重に警備されており、こじんまりとした静かな空間だったが、隣の博物館では、革命時のジオラマやゲバラの子供の頃の写真、所持品などが展示されており、チェ・ゲバラという人物の偉大さやかっこよさに心を打たれながら、言葉がそこまで分からないなりにも霊廟という特殊な空間もあって、それなりに堪能することができた。
アルゼンチンで生まれ、医者を志し、メキシコでカストロと出会い、ぎゅうぎゅう詰めの小型船でキューバに乗り込こんでキューバ革命を成功させた後、革命の灯火をキューバだけに留まらせるのではなくアフリカやラテンアメリカの国々の幸福を願って、最後はボリビアの内戦に参加し処刑されて最期を遂げた。
よく言われているのが、カストロにしろ、ゲバラにしろ、自己を犠牲にしたどこまでいっても「無私の人」だったということ。その姿は、インドのガンジーや弘法大師空海にも通じるような「無私の人」だったからこそその時の大衆は彼らを支持し、多くの人が望んだ偉業を達成できたということが言えるのだと思う。
十分すぎるほどそれを理解しているキューバ人は彼らを永遠にリスペクトするし、自分たちの国に誇りを持って受け取ったものを誰かに渡すためにもそれを体現しているのだろう。
多くの若者がゲバラのタトゥーを体に刻み、そのアイコンは国中に溢れている。
しかし、それはやはりその時代が求めていたからということが大きく、時代の変化や世代の交代とともにその思いは複雑に交錯しているように、一概に言えないにしてもどうしてもそう感じてしまう部分がぼくにはあった。
それは、利便性や速度ばかりが求められ、モノに溢れる資本主義社会で当たり前のように生きる私たちが、無私や、または利他とはどういうことなのかを考えることと、もしかしたら通じるものがあるのかもしれない。
そんな答えがないような、時流に抗えない歯痒さが残るような思いを抱えながらゲバラ霊廟を後にした。
古本に、「農村で、農夫たちと一緒に課題を共有していく」という言葉に線が引かれてあった。(それは森の中で大勢の人が作業している様子を写した写真に添えられた言葉だった)
その一節を翻訳して読んだとき、サンタクララで歩いたその道の風景が思い出された。
そして、ゲバラの余韻に浸りながら中心街を歩いていたら道端でやっていた古本市に遭遇し、例の古本を購入したのだった。
今思えば、これはゲバラに買わされたのかもしれないと、ふと笑みがこぼれた。
ハバナからビニャーレスへ
フルーツたっぷりのカサの朝食を食べ終えて、主人にお礼と別れを告げてからハバナへ向かう乗合タクシーに乗り込んだ。
キューバでの移動は、長距離バスとこの乗合タクシーの二種類で、そのときの状況によって使い分けていた。バスが予定通りに出ないことが多かったので、乗合タクシーの方が場合によっても値段的にも使い勝手が良いように感じられた。このときはどこの国の人か忘れたが若いカップルとハバナまでの道中を共にした。前の日にカサの主人に「どこどこまで行きたいのだけど乗合タクシーある?」というふうに聞くと手配してくれて、次の日の朝には大抵カサの前にタクシーが止まっていた。乗合なので車に乗れる人数が集まると出発できるというシステムらしく、料金は手頃な値段で言葉が話せると交渉次第で安くなったりもした。日本では浸透していないが、Uberタクシーの仕組みをこの国なりに取り入れているのかもしれないなと、蒸し暑い車内でそんなことを考えていた。
5日ぶりぐらいにハバナに戻ってきたが、容赦のない暑さは変わっていなかった。
前回滞在したときから狙いを定めていたカサに直行し、帰りの飛行機までの数日間泊まれるように交渉したら、連泊できそうだったのでひとまずは安心した。
ここは大きなカサで、日本人も多くアジア系の旅行者に人気の宿だった。
ベッドも当然ドミトリーなので、旅慣れた旅行者とガイドブックに載ってないような情報を共有できるバックパッカーにとって貴重な場所でもある。(葉巻が安く買える店やモヒートのおいしいバーなど)
まだ回りきれていなかった美術館や博物館などを足速に巡り、(詳しくは触れないがキューバの美術はめちゃめちゃよかった!)ハバナの市街地を余すことなく堪能するためにカメラを持ってとにかく歩き続けた。
日中あまり動きすぎると決まってバテるので、夕方カサでひと休みしてから、夜の街に繰り出すことを考えた。同じ部屋の日本人旅行者から、カサの近くに安くて雰囲気のいいバーがあることを教えてもらったので、その日の夜は一人でそこへ向かうことにした。
旧市街地のど真ん中、道路も荒れてところどころアスファルトが捲れているような、埃が舞い雑然とした区画にある古い建物の一階にそのバーはあった。
店内の照明は薄暗く、年季の入った木製のカウンターで何人かの従業員が少ない客を相手に切り盛りしていて、天井が高く開放的な店内に漂うもの悲しい雰囲気は、メキシコのカンティーナ(大衆酒場)に似たなんともいえないような趣だった。
ぼくは大勢の観光客が集まる賑やで騒々しい場所はあまり得意ではないので、地元の人が集まるようなこういった店の方が落ち着いて好きだった。
とりあえずビールを注文し、「Salud(乾杯)」と独り言のようにマスターに向かって言いながら一杯目を口にした。メキシコのビールと似ていてキューバビールも爽やかな喉越しでとても飲みやすい。
隣で飲んでいたゲバラのタトゥーを肩に入れたお兄さんが仕事帰りに馴染みの客と一杯やっているのが、どこの国でもありそうな労働者たちの微笑ましい日常といった感じで、どこか隣町で飲んでいるくらいの親近感を覚えた。
ビールを飲みながら店内を見渡したら、薄ピンク色の壁に絵が描かれているのが目に留まった。どこかの風景だろうか。ヤシの木が生え、断崖絶壁の大きな山を背景に一軒の家が中央に描かれている。
ぼくはその壁画に近づき、良い絵だなとぼんやり眺めていると、どこかで見たことがあるような気がしてきた。コワモテのマスターに「この絵はどこの風景を描いているの?」と尋ねると、「俺たちの心の風景だ」という返事が返ってきた。(おそらくそんな感じのことを言っていたと思う)
ハバナではないことは確かだろうが、店主の冗談なのかよく分からない返答に「どこやねん」と思いながら適当な相槌を打ち、あと何杯か飲んでホロ酔い程度に店を出た。
次の日に、飛行機までの時間を1日持て余しそうだったのでどうしようかと考えていたら、ハバナ近郊へ日帰りのバスツアーがあるという旅行代理店の店頭に貼られたポスターを見つけた。
いくつかのツアーのひとつにビニャーレス渓谷というハバナからバスで4時間ほどにある観光地の案内が載っていた。
午前に出て夕方戻ってくるという行程で値段もそこまで高くない。また乗合タクシーが都合よく見つかるか分からないし、この方が時間も有効に使えると思って、店内に入り早速明日のツアーを申し込んだ。
ツアーというのは決まったコースを時間通りに進んでいくだけなので、旅の醍醐味である道中何が起こるか分からないという不安定感が損なわれるため正直あまり好きではないが、キューバの旅の最後に観光地へ向かう道中の風景をぼんやりと眺める時間もいいなと思った。
朝日を浴びて気だるそうに学校に向かう女子高生や、これから仕事に通勤する人たちが通り過ぎるこの町の日常風景を車窓から見ながら、バスはゆっくりとハバナ郊外へ進んでいった。
これまでトリニダーなどの道中でも郊外の風景をよく眺めていたが、そのほとんどは無数に生えたヤシの木や荒れたシャングルがどこまでも続くような平坦な緑一色で、あまり変化がない。
町と町をつなぐための道路もそこまで車が走っておらず、世界の果てにポツンと放り出されたように、なんだかうら寂しい気持ちになってくる。
ハバナの街中を走り回って外国人を喜ばしているド派手な60年代アメ車は当然観光客用で、私用で乗るキューバ人はおそらく誰もいないだろう。
一見華やかな首都であるハバナを一歩外に出ると、閑散とした緑の風景が広がっている。
ビニャーレス渓谷は、世界遺産に登録されているカルスト地形の渓谷で、その麓では伝統的な農法による葉タバコの栽培が盛んな場所である。石灰岩の断崖が見られるカルスト地形なので周囲は複雑な地形のため天然の洞窟が形成されており、その洞窟にはプランテーションから逃亡した奴隷や、独立革命時代の革命家たちが身を隠していた場所としても知られている。
タバコの葉を乾燥させるための小屋や、石灰岩の断崖に描かれた大きな壁画がある観光スポットを順々に巡りながら、その変わった地形が見せる独特の風景を楽しんだ。赤茶色の土の上に緑の畑が広がり、その周囲には素朴な家がポツンポツンと建っている。赤と緑のコントラストが綺麗だった。
バスの中からなんとも牧歌的な風景だなあとぼんやり眺めていると、過ぎ去る風景の中にどこかで見た景色が現れた。
突然のことだったので、どこだったかすぐに思い出せずとにかく急いで目の前の風景を写真に収めた。
カシャッとシャッターを押した瞬間、それがちょうど昨日ハバナのバーで見た壁画だったことを思い出した。
目が覚めたようにハッとし、走行中のバスの窓から過ぎ去る間ずっとそれを眺めていたらその風景は、壁画の絵そのものだった。
見えなくなり、バスの中で一人呆然としてしばらくこの瞬間のことを反芻した。
撮った写真を見比べても構図もほとんど同じで、この位置から見た風景をそのまま壁画のモチーフにしたのではないかと思ったくらいだった。
断崖の山を背景にして、ヤシの木が生えた茅葺き屋根の小さな家が中央にあり、家の前の庭には馬がいてロープでつながれている。
馬を繋いだその白いロープが、点と点、記憶と記憶とをつなぐ一本の線のように思えた。
なんだかよく分からないが嬉しくなって、ぼくはこの奇妙な偶然やストーリーも含めてこの風景を絵に描きたくなった。
しかし、バーの壁画と目の前の風景が重なったという確かに面白い偶然だったが、なぜぼくはこんなに大袈裟に捉えているのだろうとふと我に返った。
もしかしたらそれは、自分の故郷の風景に何か通じるものがあるのかもしれないと、すぐにその場で過去のことを振り返ろうとした。
ぼくは、幼少期より親の仕事の関係で引っ越しを繰り返し、何度も転校をしてきたのでその都度友達との別れがあり、泣きながら親を恨んだこともあったのだが、小学生の頃は、田園風景が広がる山間の地域で暮らしたことが多かった。
しかし、自分にとってここが故郷といえる特定の場所はないように感じていて、強いていえば過ぎ去る風景の中にそのイメージがあるような、流動的で不明瞭なイメージが記憶の中で混在している。
そういったことから、移動の中でのこのような状況、偶然から必然へ何かが移行しながら道が続いていくような旅そのものが、故郷につながるイメージを形づくり、その風景を目の前に浮かび上がらせているのだと思った。
人にとっての風景とはなんだろうか。
その人にとっての物語が風景に介在しているのではないだろうか。
その物語とは、私たちを取りまく環境において各々が持つアイデンティティにも起因するだろう。
旅をすることと故郷に帰るということを繰り返しながら、その移動の中でアイデンティティは解像度を増し、自己と世界との関係の物語を少しずつ更新していく。
ハバナの壁画バーのマスターが「心の風景」と言ったこともあながち間違えではないように思えた。
あの壁画を描いた画家ももしかしたら旅の中で故郷を思って描いたのかもしれない。
(ビニャーレスの岸壁に描かれた巨大な壁画をメキシコ人画家、ディエゴ・リベラが制作したというのも面白い偶然である)
旅をすることと故郷を想うことがアイデンティティの形成に大きく関わってくるとしたら、国を捨てて亡命という選択をして国外へ脱出するキューバ人たちの物語は壮絶なものだと想像する。
家族と離別する人にとって、それは故郷に帰ることのできない旅である。
キューバに限らず一部の社会主義国やその国の政治的、経済的な状況によっても大きく変わってくるだろう。旅にはいろんな種類があり、それはまず、望むか、望まないかに分けられる。
比較的自由に移動ができる日本のような国との絶対的な違いがそこにあり、両者の間にはそういった意味での境界線がはっきりと引かれているように思えた。
キューバと日本、欧米中心世界の辺境でともに小さな島国でありながら、大国の顔色をうかがってきた国と独自の道を模索してきた国。
マレコンビーチから見える水平線に国境を強く感じるように、例えば私たちは米軍基地を国境として意識の中で線を引くことができるのだろうか。
旅について、その道中で出会う線についてをバスの中で考えていたら日が暮れた夕刻のハバナに帰ってきた。
明日にはメキシコシティへ戻る飛行機が出る。サルサをたっぷりとかけたタコスやトルタがすでに恋しくなっていた。
土産物を整理しながら荷物をまとめていると、カサの主人と奥さんがぼくのところへやって来て、ここのカサのルールや注意事項なんかが書かれた紙とマジックを渡し、日本語に訳してくれと言ってきた。日本人客が多いので英語が話せない彼らは困っていたのだろう。快く引き受けてスマホの辞書で調べながら翻訳してあげたらその日の晩御飯の料金はチャラにしてくれた。(正しいかどうかは分からない)
この夫婦は、自由気ままに旅ができるぼくら外国人のことを宿の仕事をしながらどう思っているのだろうと、別れを告げるとき、最後に気になった。
メキシコ行きの飛行機に搭乗し、離陸するのを待っている間に今回のキューバの旅を振り返ろうとした。
たかだか2週間の滞在だったが、とても長く感じた時間だった。
それは、社会主義という独自の理想を築き上げた世界から見ても特殊な国に生きる人たちの営みや出会いを通じて、言語や価値観を超えて遠くに感じていた世界をほんの少しだけ身近に感じることができた時間だったのではないかと思う。
山に登ると今まで見えなかった向こう側の風景を山頂や稜線から初めて見ることができるが、そのときのイメージはネット画面からでは決して伝わらない確かなリアリティーがそこにある。
そして、雪山でも平地の旅でも歩くとそこには歩行の線が残り、その線は旅の中での予期せぬことや思いも拠らない出会いによって、不確定な未来へ曲線を描きながら緩やかに伸びていく。
飛行機が離陸して、小さくなっていくキューバ島を窓から眺めていると、島自体が光の中を航海する船のように見えた。
これからどこへ向かっていくのだろうか。
古本の中に子供たちが大きな荷物を背負って歩く写真に、「A llevar la luz de la enseñanza.(教えの光を運ぶために)」という言葉が添えられている。
それを見たとき、ハバナの街角で家の扉を黒板代わりにして算数の勉強をしていた子供たちの姿を最後に思い出した。
最後に
この紀行文は、1961年について書かれた本とともに、2017年に自身が旅した記憶をたどりながら、2024年(現在)に再びキューバに思いを馳せた他者との追憶の旅とも言える。
きっかけは、サンタクララで購入した古本だが、なぜそこに引かれている線が気になったのかがこの文章を書きながらはっきりと気づいた瞬間があった。それは、その線が旅の先にある遠い故郷のような、かつてあった普遍的な場所へとつながる道に見えたということだった。
同時にそれは、ぼくが絵を描く理由がそこにあるように思えた。
その場所は、照りつける太陽の下で誰かとともに歩き、光と影のコントラストが浮かび上がる未来への遠い記憶を呼び覚ませる肥沃の土地なのかもしれない。
世界のどこかにあるそんな場所をまた旅して、絵に描くことができたら。