5歳で親子になった娘とわたしの10年
子宝光(茂原祥一)
(すでに書いたものと重複をさけて、5歳~中学3年までの一挙掲載です。約80枚と長いのですが、番号をつけてありますので、少しづつでもお読みいただければ、とても嬉しいです。
執筆動機:5年前、母は血液がんで発見から3月で急逝しました。看取ったあとの虚脱感で、なにも手につかなかった。そのときの、唯一の癒しが、執筆でした。母を神のように慕った倫子との出会いからの10年を振り返ることでこの時期をやっと乗り越えることができました。
気持ちをこめて、30回ほど添削してあります。駄文をお読みいただくのは申し訳ないので、分量も半分にしました。)
保育園時代
1
お見合いのパーティーで出会って、はじめてデートのとき、由紀はもう子供を産めない体であるとわたしに話した。自分は臨月での死産、置いてきた娘、いま五歳になる娘(倫子)と帝王切開を三回している……。これがなんどか会ったのちに口にされた言葉なら、とわたしは振り返る。由紀との縁はなかったし、それはそのまま、倫子との縁もなかったことにつながる。
そのとき、由紀はこうも言った。こういう会では、縁のある人と出会えそうもないことが分かったので、退会しようと考えている、と。わたしも同感で頷きながらきいていた。
由紀はエッセイを三冊書いていて、それを読むことで、わたしは共通の友人がいないわりには、その人柄や過去を早く知ることができた。由紀のほうもわたしの父親の自分史――亡くなる数年まえに書いたものをわたしが自費印刷していた――を読み、わたし自身と家族の雰囲気を掴んでいたであろう、とこれはその当時のわたしの感じで、そのことを由紀に訊いたことはなかった。
微妙でなかなか聞き出せないようなことを、つきあいのごくはじめに知ることができたのは、ふたりの場合の特殊であろうとわたしは思う。
由紀は経済的な理由で大学に行けず、大手自動車会社の役員室の秘書に採用されて大分から上京。その旅費も初任給までの生活費も地元のマックのアルバイトで稼いだ。社内結婚の夫とのあいだにできた娘が四歳になるまで四年待って離婚。同居していた義母と夫のもとに娘を置いて出た。そのあと非婚の母となり、ひとりで倫子を産み、育て、親に仕送りもしてきた。
由紀が二十八歳で会社をつくった年にわたしも三十五歳で会社を立ち上げていたという、たんなる偶然も、ふたりには縁に思えてきて、自分の力で稼ぐ苦労を知るものどうしの話が交わされる時間は早く過ぎた。
出会って1月半、結婚後、二人の住むマンションにわたしが転がり込んだ。
恵比寿にある自分の会社に一時間あまりかけて通勤する由紀にかわって、都心から実家に仕事場を移していたわたしが、日中の倫子の面倒をみるようになった。倫子は保育園の年長組で、来年の小学校の入学までまだ十カ月ある。
夕方、保育園からひきとったあとで、週に何日かスーパーマーケットにつれて行った。倫子はわたしの手にぶら下がって、足を伸ばしたまま一、二メートル引きずられるのを好んだ。その数秒間だけスーパーの中が親子の遊び場になる。(重複のため書略)
2
関東に身寄りのない由紀は、ひとりで倫子を産んだ。(出産の前後は、近所に住む会社の上司が奥さんとともに手助けしてくれた。大分の両親への報告は出産後だった。)。倫子を出産してからも、地方への出張や講演で帰宅がおそくなる日が多々あって、そうした晩には倫子の世話をTさん一家にたよっていた。Tさんは倫子がゼロ歳児のときからかよっていた保育園の保母さんで、倫子とは年齢で祖母と孫のような関係になる。優しいTさん夫婦と若夫婦の世話をうけて、孫、娘のように遇されたから、倫子にはかけがえのない安息の場になっていた。
「お泊り」の日、倫子は家事――保育園児のころから夕食の当番があった――から解放されるので、今日はお泊りよ、と母親に知らされると、やったぁ、とバンザイをしたという。
あるときTさんは戯れに、お母さんとおばちゃんとどっちが好き? と訊いたことがある。倫子は、おばちゃん、と即答。正直な気持ちのままだったと、わたしは、結婚して間もないころの倫子の口から耳にした。でもお母さん、お金をだしてくれてたんだもんね、と倫子がわたしに口にするのは、その数年ののちのことだった。
夏ともなれば、おばちゃんは西瓜が大好きな倫子にいつも用意して待っていてくれる。食後、心待ちにしている倫子のまえで、ちょうど風呂上がりのおじちゃんが自分の西瓜に塩をふりかけた。あ、という間もなく、倫子の西瓜にもかけてしまった。西瓜に塩が苦手な倫子はその場で、箸をとめたまま泣きそうになるのをかろうじて堪え、そっと階段の陰にいって声をたてずに泣いたという。
「子供にとって、スイカがどんなに楽しみか、わっかるぅ? 朝からたのしみにしていたんだよ。でもさ、おじちゃんは好意でかけてくれたんだもんね。まえでは泣けなかったよ」
わたしがTさん宅にむかえに行ったとき、おじちゃんは、倫ちゃんは大人の話がみんな分かるんですよ、と感心していた。
おそらく、由紀のおなかの中で、週に二回ほどの講演会やその後の懇談、クライアントとの会話などを耳にしていて、おとなの言葉をシャワーのように浴びていたことが意識しない胎教になっていたのだろう、とわたしは思っている
結婚で地方出張の「お泊り」がなくなったときTさんは、養育料はいらないから倫ちゃんをときどき泊まりに来させてね、と由紀に懇願したという。
保育園の卒園式の挨拶で、倫子の順番がきてわたしと並んでまえにでて話をしているそのとき、父母席のすみで聞いていたTさんは、ハンカチを目にあてたまま部屋から走りでていった。乳児のときからこの日まで、倫子との縁はまる六年間になる。どんな想い出が涙になったのだろうと思いながらわたしはドアから消える背中を見送っていた。
「おばちゃん」というときの、澄んで甘えるような倫子の声を聞くと、わたしにもTさんのそのときの気持ちがすこしだけ分かる気がした。Tさんは、そのまま、保育園にはもどらなかった。
Tさん一家とは互いに引っ越して離れてからも、祖母と孫のような関係がいまもつづいていて、盆暮れには泊りにゆき、中学・高校の入学祝いも倫子はもらっている。
Tさん宅でみせた自己を抑制し、大人の気持ちに合わせられる力が倫子には保育園のときからそなわっていた。倫子が駄々をこねたり、わがままをいったりした記憶がわたしにはいちどもない。それは生まれつきの性格なのか、あるいは、一度きめたらけっしてぶれない母親に五年間なれてきたためか、あるいは週に三、四日、Tさんという他人――自宅よりむしろ気が休まり、安息の場ではあったけれど――の家ですごしてきた環境が培ったものなのか、わたしにはわからない。
スーパーのお菓子のコーナーで商品を指さして、ね、おとうさん、これ買って、とわたしを振り返ってねだることがある。躇(ため)らいの気配を感じると、じゃぁ、いいや、とすぐに引っ込める。聞き分けのいい大人がちいさいからだのなかにいる、そう感じることがしばしばあってそのことに哀れさも覚えていたから、菓子をねだられたときには、間をつくらないように意識した。
3
ある日、夕食の支度でわたしが台所にくると、倫子がテーブルの上で、なにか書いていた。訊けば保育園で仲が良いリナちゃんに保育園の連絡で電話をしなければならないという。倫子にとって、はじめて掛ける電話だった。さきほどまでいっしょに遊んでいたのに、いきなりは掛けられないようで、せりふを準備している。
(あ、もしもし、あたし倫子、あのさあ、リナちゃんさあ、あしたさあ……)そこまで一瞥すると倫子は恥ずかしがって手で隠した。書きおえて電話をするまえに、「ね、ちょっとさ、あっちにいっていてくれる?」
と、恥ずかしがるので、ドアをしめて隣の部屋にきた。掛けている気配を感じながら、口は達者なのに電話になると話せない、この対比が新鮮で、メモをする姿とその文面がわたしの記憶にのこっている。
倫子は四歳のときから近くの八百屋にお使いに行けた、という。由紀がほうれん草とにんじん、と口頭で指示するだけで買ってこられた。お店の人と話すのが恥ずかしいから、倫子は自分で、にんじん、などと書いてゆき、店ではうつむいたままそのメモをさしだした。野菜を受けとるときも、おつりを手にのせてもらうときも、うつむいてできるだけ顔を見ないでかえってくる。わたしはこの話を倫子からきいたとき、初対面の日の、道路わきの縁石にすわって首をふかく垂れてこごんでいたすがたを思い出した。
結婚して間もなく夏がきた。せがまれて毎日ふたりで買いに行っていたアイスクリームだったが野菜を買えることを知ったあとで、それならば、とわたしは訓練を意識して、ひとりで行けたら買ってあげる、と言ったことがある。
家から一分とかからない、なじみのある親切なおばちゃんのいる個人商店で、倫子にとっては敷居が低いはずだったからとうぜん行けると予想していた。大好きなはずのアイスクリームを、倫子は、じゃあいい、と一瞬のためらいもなくあきらめた。その決断のはやさがわたしには意外であり、それならば、と日をあらためて問いかけてみたけれど、なんどやってみても反応はおなじだった。
母と娘ふたりで暮らしていたとき、お使いに、倫子はどんな気持ちで行っていたのか。由紀を崇拝していた倫子に言いつけは絶対でその指示にしたがうしかなかったのか、あるいはふたり暮らしの母親を助ける思いやりから行っていたのか、わたしにはわからなかった。大好きなアイスクリームでさえ足が重くなったことで、お使いが幼い倫子に負担だったことはたしかだ。親元で安閑として暮らしてきたわたしには、母と子ふたりで暮らしていたときの倫子の気持ちと、ひとりで仕事をし、親に仕送りさえして幼い子を育ててきた由紀のこれまでの五年間の生活に想うことは多かった。
小学校時代
1
小学校に入学してはじめての授業の日、わたしは倫子のかえる時刻に家のまえの道に立って待つことにした。数日まえに、両親とはぐれて鍵のかかったドアのまえで泣いたことを思い出したし、なんとなく道にでて初日のかえりを迎えてやりたい気分になっている。
帰宅路として学校に申請した――それを前日にふたりで歩いてみた――とおりのコースでかえれば五十メートルほど先のまがり角から姿をあらわすはずだった。どんな様子でかえってくるだろうか、友達と連れだってか、などと思いながらわたしはマンションのまえの道に立った。
真昼の道路に人の気配はなく、マンションの斜めまえにひろがる、家が十軒以も建ちそうなひろい空き地が草原になっていて雀の群れが餌を啄んでいる。それを遠くから猫――猫好きの由紀はケンタロウと名づけていた――が身をかがめて慎重にねらっている。刈り込みされたばかりで、草丈はみじかいから雀からはまる見えだ。雀たちは熱心になにかを啄みながらも猫を横眼でみているかのように安全な一定の距離を保って三々五々少しずつ移動している。気づかれているのを知ってか知らずか、鼻のさきが黒く、みれば噴き出しそうな風貌をしているケンタロウは頭をひくくして匍匐前進のようなかっこうで狙いすすんでいる。その真剣さが滑稽にみえる。
そのとき、目の端にうごくものが入った。倫子だった。猛然と走ってきたらしく大きな赤いランドセルが勢いあまって角をオーバーランしてくる。わたしに気がつくと、安心したのかスピードをやや緩め、それでも運動会の練習くらいの早さでかけてきた。わたしのまえまできて、「ただいまぁ」と、それだけ言うのが精いっぱいだった。膝頭に両手をついてランドセルを波打たせている。
「ああ、心ぼそかったぁ」
おちついてから、顔をあげてそう言った。倫子が新しい生活のまえにたつとき、こんな日もあったのだ、とわたしはこの場面をおりおりに思い出してきた。
小学二年生のある休日、ゆう子ちゃん――たしかそんな名前だった――と校庭で待ち合わせて遊ぶといって倫子はでていった。
帰ってきた倫子から聞いたところによれば、二時間待っても来なかったので家へ行ってみたら、部屋を片づけてから行こうと思っていて、こんな時間になっちゃったの、と言われた。
帰った倫子からそれを聞いた由紀は、ひどい、と同情し、
「もう、そんな子と遊ぶのやめたら」と憤慨した。そのとき校庭で待たされた当人の倫子は、
「お母さん、そう言うけどさ、ゆう子ちゃんって、そんなに悪い子じゃないんだよ」と、逆に弁護した。
「いいところも、いっぱいある子なんだよ」
と、倫子はたしかにこう言った。
一言半句、口にした単語もその順もこのとおりだったと、わたしはなんども思いかえしてきたので自信がある。記憶力のとぼしいわたしが(メモの時期から)七年以上もまえの言葉と口調を鮮明におぼえているのはこの子、もしかしてすこし足りないのでは、と行くすえに不安を感じたからである。わたしはこのとき、世の中の色が急に透明な色ガラスを通してみるように変わったことを憶えている。
校庭でなすこともなく待つ小学生の二時間は、大人の何倍もながく感じるだろう。それほどの時間を待つ根気が異常に思える。さらに待たされた相手を責めることなく、あるいはそうした能力を欠いて、逆に弁護さえする倫子が、そのときのわたしにはふつうの感覚と理解力をもった子に見えなかった。
自分に不利益をもたらした相手にたいして、それを責める感性をもたないこの子は、大きくなってまともに人の世をわたっていけるのだろうか、とつよいショックを受けた。無垢の性質に感心するよりも、人の心の悪しき部分によって翻弄される人生が、この子の行く末に待っているのではないか、との不安に捉われていた。
しかしその一年後、不安が消えた。その日のことも、わたしはおなじくらいのつよさで鮮明におぼえている。
三年生のその日、わたしは仕事の都合で倫子より遅く帰ることがわかっていた。学童保育が終わって、先に帰った倫子がマンション一階の自宅のドアのまえで鍵を出そうとしているときだった。背後からそっと歩みよってきた中年の男が、家にだれかいるの? と訊いてきたという。
倫子はとっさにこう答えた。(――お父さんがお休みなので家で寝ています)。男はそのまま立ち去った。
夕方、このいきさつを知った由紀とわたしはおどろき、倫子の無事にまず安堵し、そうして、そのあとで倫子のおちつきと機転に感心した。
自分ならどう反応したであろうか、とわたしは思う。おたおたして、がらんとした部屋の中が目にうかび、そのままを口にしていたであろう。自分の子供のころの失言のかずかずを思い出して、きっとそうしたはずだとの確信がわたしにはある。意表を突かれたこうした場面で、わたしはとっさの機転がまったくきかなかった。それらを経験するたびに、わたしは苦い記憶を心の中に重ねてきている。その苦さは、もういちどあの場面になったら、あんな傷つけるような言い方はしないに、という後悔だった。
この事件は、前年にあった、友人に二時間待たされた顛末で生じた倫子の将来への不安を一気に払拭した。そのとき胸におりてきた安堵の気持ちをわたしは鮮明に憶えている。
2
結婚後、倫子はひとり暮らしになったわたしの母光代のところに週に一日か二日、泊まるようになっていた。倫子は喜んで泊まりにゆき、光代もまた倫子との時間をたのしみにしていた。
光代は習字の師範で教室を多くもっており生徒数も百人をこえて多忙だったが、ひとり暮らしを寂しく思う夜もあったであろう。倫子の泊まる夜はその寂しさを紛らし、生活に潤いをもたらしているように、わたしには思われた。倫子も、ここでは家事の分担を不憫に思う光代にだいじにされたから、ふたりは祖母と孫としてともに生活の喜びを分かち合っているように見えた。遊びにくる倫子の友達のめんどうも光代はよく見ていた。
光代と倫子は生い立ちに共通点が多かった。ふたりとも遺伝上の父親を知らない。由紀は思うところあって倫子にいっさいを語らないし、光代の生母が実父に会わせなかったのも離婚後の出生とはいえやはりその意思だった。いや、正確にいえば光代は父親という人を一瞥したことはある。親戚の葬儀のかえり、光代の養父となっていた叔父――生母の弟――が太った男と立ち話をしていた。その人はなんとなくこちらを見ていたが、あとで養父からいまのがお父さんだったよと教えられた。
声をかけてもらうことも抱きしめられることもない出会いで情が湧かなかった、と母はわたしに述懐している。
光代の小学校の通信簿ーー昔は、こうよばれていたーーには「養女」の文字がある。それがいやで子供の光代は消そうとしてこすったけれど文字は消えなかった。わたしは話に聞いていたその通信簿を大人になって母親に見せられたとき、薄くなっているその文字からしばらく目を離せなかった。
倫子の通知表にはいま、親との関係を記す欄はない。戸籍をみれば「養女」ではなく「子」となっている。どうでもいいことではあるけれど、わたしにとって倫子は役所の文書のうえでは「子・倫子」である。
光代は全財産を倫ちゃんにあげてもいいわ、と口にしたこともあるほど倫子を可愛いがった。それだけではなく、倫子の面倒をよく見たのは、おなじ生い立ちの親近感とある種の義務感もあったであろうとわたしの目にはうつっていた。
光代とふたりで食事をしているとき小学生の倫子について光代はしみじみとわたしにこう言った。
「あなたね、実の子よりも、できがいいわよ」
光代の言葉は、実子は持てなかったけれどこの子でむしろ良かったのでは、と母が言外に自分自身と息子をなぐさめているとわたしは受けとっていた。多くの教室とお弟子さんをもち、性格を見極めて教室ごとに助手を育ててきた母の人を見る目をわたしは信頼していたから、実の子よりも……、の言葉はわたしの心にあたたかい泉のように沁みた。
3
小学校の一年生になってまだ間もないころのことだった。帰ってきた倫子にいつもと変わったところはなかったが、口からは驚く言葉がでてきた。
教室で男の子を泣かしてしまったという。その顛末を倫子は、
「無我夢中でさ、気がついたら馬乗りになってたんだ。みんながとり囲んでてさ。おどろいたよ」
と報告した。小柄でか細い倫子のイメージに合わないできごとに、わたしもおどろいた。
「途中で、気がつかなかったの?」
「おぼえてないよ。こうやってさ、夢中でぶってた」
手をぐるぐる廻すしぐさをしながら、倫子は興奮して言った。
それは休み時間のことだった。机と机の間の通路で友達と話していた倫子は保育園からいっしょだった男の子に、どけよ、と突きとばされて尻もちをついた。
「あたしがどかなくても、通るところなんていくらでもあったんだよ」
と、そのときを思い出して倫子は力を込めた。わたしのなかに小学一年生の休み時間の教室がうかんだ。
「それって、おかしいでしょ」
「ちょっと、乱暴だね。突きとばすことはないよな」
「ただされっぱなしってさ、悔しいじゃない」
そこから倫子の記憶はない。われを忘れることが、この子にもあるのだ、と倫子の顔をみた。
倫子の席は教室の中ほどだというが、馬乗りに気づいたときは教室の後ろだった。見ていた担任のS先生は、倫子ちゃんって、つよいのね、と笑って咎めなかったという。わたしは面談のときのふっくらして優しそうなS先生の顔を思い浮かべた。
それから七、八年して、中学生になっていた倫子と、居間で話していたとき、小学一年生のときの“暴力沙汰”のことが話題になった。
「怖かったからさ、またされないようにって。顔を爪で引っかいたら泣き出したんで、気がついたの」
引掻いた顔に出血はなかったが、三本の赤い線が顔についた。
「あのときさ、先にやられたからやりかえしたんだよ。そのことは意識してたよ」と倫子は言葉に力をこめた。
そうして、相手が男の子であり、身体も大きかったから、ふたたび理不尽なことをされないように、殴りつけたという。
「相手がさ、もし女の子だったら、あたし絶対に手なんか出さなかった。男の子でも、小さい子だったら、たぶんやらなかったよ」
と、冷静であったことを強調した。あの日、親が学校から注意されること必至とみた倫子は、そのまえに親にこのできごとを話していた。
「でもさ、○○ちゃん(男の子)のお母さん、偉かったよね。あのとき学校に文句言ってこなかったもんね。うちの親にも先生からなんにも言ってこなかったでしょ」
わたしがうなずく。
「あのとき、先生も親もおとなはみんないい対応をしてくれたよね」と倫子は言った。
その子は、顔に傷をつけた相手が女の子であることなんて、母親に言えなかったのではないだろうか、まして、その原因など口にはできない。転んだとでも言ったにちがいない、ふつうの男の子ならそうだろうとわたしは思った。倫子の考えるように親に正直に話したのではなく、母親が苦情を控えたのでもなかった。しかし、それもわたしの憶測にすぎない。せっかくの倫子の思いを勝手な憶測でこわしたくなかったからわたしはただ黙ってきいていた。
4
「ねえ、ねえ。ちょっときいてよぉ」
学童保育からかえってきた小学三年生の倫子が、かばんをソファーに置くのももどかしそうにして言った。
倫子の、ちょっときいてよぉ、はいつもわたしの心に、わくわく感にちかい期待の波を立たせる。
(以下重複のため略)
その夜、由紀は言った。
「あたしもカレーつくれるよ、って言うわね。言われるより先に、あたしは保育園のときからつくれたんだよとか、言うかもね」
それがふつうの反応だろうし、おなじ場面に立ったら自分もそう言うだろうとわたしは妻の顔を見ていた。
大人でもそうなのに、このいたいけない八歳の幼い命が自分の欲求をおさえながら相手の気持ちを忖度してほめた。ほめることができた。自慢話でえられる優越感という果実を自分の手にではなく友達の手にさしだすことができた。
かるいショックをうけながら、わたしは無心におやつの西瓜にかぶりついている倫子を見ていたときの感慨がしばしば胸をよぎる。
おなじころのことだった。人から菓子をもらったとき、さっそくひらいて由紀とわたしは舌を楽しませるのがいつものことだった。その横で倫子は自分が食べるまえに皿にのせた菓子をそっと仏壇に供え、先祖さんにちいさな手を合わせる。自然でさり気なく親がそこにいないかのように淡々と供える。気づいていた由紀とわたしは口を止めてお互いの目を気まずく見つめあう、幾度かそうしたことがあった。
親にできないことを子どもが教えられもしないのにできている。このときもわたしのなかの常識がゆらいだ。
5
倫子が小学生四年生の夏休みに一家は駅ふたつ離れたいまの花小金井に引っ越してきた。新しく借りた家の南側の小さな庭は、柵と用水路をへだててそのまま都立小金井公園の森へとつながっていた。目のまえには家が一軒も見えず、別荘地のようだった。
そうした環境からくるのであろう、二階にある倫子の部屋には亀虫がしばしば飛来してきた。倫子は、この虫が発する臭いが苦手で、部屋の中にそれを発見すると悲鳴にちかい声をだして、
「お父さん、カメムシ、カメムシ! とってぇ」
とわたしの部屋にかけこんでくる。よし、といつものように虫の上から素早く紙コップを被せ、下から厚紙をさし入れて閉じこめる。それをみて横から「殺さないでね」ときまって懇願する。それまでもわたしは亀虫にかぎらず、蚊以外の虫ーー蟻、蜘蛛、蠅、蜂などーーを殺すことはほとんどなく、いつでも生け捕って外に放つ。出会ってから五年ほどのあいだのわたしのそうした対応に倫子は慣れているはずだったが、それでも反射的に、殺さないで、と声にでてしまう。わたしは二階の窓から身を倫だしておさえていた紙をとり、紙コップを公園にむけて放るように振る。亀虫はいったん落ちかけてから風に乗り、公園のほうへ飛んでいく。
そんな環境だから、倫子がたまに掃除をすると窓のサッシの下に亀虫の死骸が三つ四つ、二つ三つ、ころがっている。それに気がつくと奇声をあげてわたしの部屋にとびこんでくる。
「お父さん、たいへ――ん。カメムシのご遺体がいっぱいだよぅ。捨ててくれる」
ご遺体、といってもふざけているのではない。
この奇妙な物言いをわたしははじめ冗談ときいていたが、じつは悼む心から発していることがすぐにわかった。たかが昆虫にご遺体などという感覚を面白がってはいたけれど、何年も耳になじんでくると、わたしは生き物の死骸にたいして敬意をもつ倫子が、なんだか気高いような気持ちになることがある。処理の依頼をうけて、はいはい、ご遺体四つね、などとふざけたあとで、冗談っぽい物言いに、かすかに心がゆれる。
虫も先祖とみる敬虔な仏教国では、きっとこれが自然な感覚なのかもしれないな、などと考える。亀虫だって四十億年をおなじ地球のうえで生きのびてきた仲間なのではある。
死骸は臭くないから素手で摘まんではひとつひとつ二階の窓から空中に放る。乾燥していて軽いからふわふわと舞いおちてゆく。
ご遺体、たちは庭の草むらのなかで時間をかけて土に還ってゆくのだろう。
6
小学校高学年のころだった。
わたしはたまたま、倫子が手にしていた漢字の小テストの答案用紙に遭遇した。×だらけで、訊けばいつも十問のうち二、三問しかできていないという。迂闊にもこのときまで、そんなにできないことを知らなかった。
テストの用紙を目にするのは久しぶりのことで、倫こはそんなものは世の中にないかのように、いつも見せなかったし、わたしも要求したことはない。それは由紀もおなじで、見たところで点数が上がるわけじゃないでしょ、と含蓄のある言葉を口にするだけだった。
わたしはテストの点数を上げるという目先のことにはまったく乗り気はしなかったけれど、漢字の学習をとおして、勉強ははやればできるものだ、努力しただけの成果はあるものだ、という成功体験を身につけさせてやることには意欲が湧いた。その体験は倫子の今後の人生にとって必要なことに思われたのである。
さらに、このていどの漢字を書けないままでは世の中にでてから困るだろうと思った気持ちもそれを後押しした。
それから一、二か月の間、小テストのある数日まえから出題範囲の漢字を二十くらいずつ復習させてみると、倫子はわたしにしたがって素直についてきたから、つぎからの小テストでは八十点以上がつづいた。答案用紙を誇らしげにわたしに見せにきたとき、わたしは、内心でなぜ百点ではないのかと不満に思いながらも、「おお、やったね! 二十点が八十点になった」と意識した称賛を口にした。
「ほんとうはさ、倫子って、やればできる子なんだよな」
「そうね、あたしって、やればできる子なのね」
と、自信をつけてきたようだった……。しかし、補助をやめたあと、小テストはすぐ以前の二十点くらいにもどってしまった。成功体験によって、自主的に漢字のおさらいをやる習慣がつく、とのわたしの目論見はあっさりとはずれた。やればできることがわかった、だから、いま勉強はやらないという。これが倫子の思考回路だった。なかなか刺激的で魅惑的な考え方ではある。しかし実感ではとうてい理解できないとそのときわたしはあわい挫折感のなかで思った。
あのまま付ききりで教えれば数百の漢字は覚えただろうが、それではこれから倫子が生きてゆくうえでなによりも重要であるとわたしが考える自主性あるいは自律性が育たない。永い目でみたときの益はすくなく、損失はおおきいと考えるわたしにできることは、ここまでだった。
倫子に詩や名文を覚えさせたこともある。リズムや言葉のおもしろさを感じてもらいたくて、小学校の夏休みに倫子とつれだって小金井公園の木蔭でいくつかの詩を暗唱した。暗記力は若い倫子のほうがあることも教えたかったし、じっさい、わたしが暗記していなかった詩では倫子のほうが覚えはよかった。
そうまでしても、そののちに自分から詩を読むことは漢字のときとおなじようになかった。
中学生になったとき、このころ覚えた何年もまえの「ゆや~ん、ゆよ~ん」とか、「ぱいぽ、ぱいぽ」といった有名な一節をときどき口にするときに、どこか楽しげな懐かしさが顔に漂っていることだけであった。それ以外には、なにも残らなかった。
7
由紀が仕事で不在の昼間、家のまえにひろがる小金井公園へ倫子とよくあそびに行った。
おおきな椎の樹の下の蔭にねころび、片肩肘ついて見のまえにひろがる草原(くさはら)をながめながら、ときどきは昔の思い出話をすることもある。小金井公園の木蔭で、草原の上にならんで寝ころびながら、この日、話は保育園のころの、倫子の寝つきの悪さにかたむいた。眠らない倫子をもてあまし、なんとか寝かせつけようとして、置いて出るふりをした、あの夜のことだった。意識するともなく封印してきたそれをわたしは五年ぶりに解いた。春の太陽と背中の草と土のやわらかさと温かさがわたしの気持ちを和らげたのだろうか。ねころんでいた姿勢から半身をおこして、倫子に訊いた。
「覚えている?」
小学校の高学年になっていた倫子は、もちろん覚えていた。
「あんなことを言ったらさ、かえって眠れなくなっちゃうでしょ。お父さん、あんなことして、ほんとうに眠れると思っていたの? 」
と言ってわたしの顔を見る。
「いや……」わたしは口ごもった。あのときの、自分のなかにあった冷たさ、突発的な怒り、といった恥ずべき数々の汚点をわたしはやはり口にできないでいる。
「もういちど、あのころにもどれたら、もっと優しくしてあげられるのにな」
と、逃げこむように言った。この言葉はあの夜を思いかえすたびにわたしの心にうかんできていたから、反射的に口にのぼった。これを聞いた倫子は、やや間があって自分の気持ちをたしかめるようにこう返してきた。
「――仕がないよ。おとなだって子育てするの、はじめてだったんだから」
わたしは起きようとして、起きられなくなった。泣いて追いかけてきたあの夜が、もう五年も前のことだったのかと思いながら、わたしはふたたび寝ころんで、風でゆらめく椎の葉をみあげた。
中学時代
1
倫子は小学生四年生のときの引っ越しの際、クラスメートと離れたくなかったために転校せず、そのまま卒業までもとの小学校に通いつづけたから、地元の市立中学に入ったとき、教室には顔見知りがひとりもいなかった。
初日、となりの女の子に、家はどこ? と訊かれたとき、倫子は緊張していて、あっち、と指さした。それを帰ってから笑みを浮かべてわたしに話した。
中学に入学してから衣替えのころまで、帰宅したときの顔に小学生のときにはなかった蔭りがみえた。わたしははじめのうち、それを知り合いがいないためだと思っていた。ときにはテニス部の練習疲れのためともみえた。中学に入って、めっきり会話の少なくなった倫子との、日々のすこしずつの会話からわたしにみえてきたのは、一部クラスメートたちへの違和感だった。いくつかのゆるいグループができはじめているころで、あるグループではその場にいない女の子の悪口を言う。さきほど悪口を言われた子がそばにいるときにはその逆のことが起こる。その場にいない子の悪口や陰口が目のまえの子たちとの親密感をたしかめる条件のようになっている。小学校のときにはなかった、友人たちの裏を見聞きして、倫子はとまどい、怒り、傷ついてもいた。
「けっこう気をつかうよ。陰口に同感しているような雰囲気をつくらないといけないんだけどさ、うっかりうなずいたりすると、倫子も言ってたよ、と悪口を言ったことにされるからね」と、倫子は言った。
この時期、倫子に、おなじ情を分かち合える友だちのできたことは幸いだった。優子ちゃんも陰口を聞いたり裏表を見るのがいやだという。このころ、優子ちゃん、という名前が会話のなかに頻繁にでてきて、そのとき倫子の表情に明るさがさした。
蝉が鳴きはじめ、入道雲の背景の青が深くなるころ、優子ちゃんは転校していった。話にきいてきただけで会ったことのないわたしもなごり惜しさに似た寂しさを覚えていた。
その後も、倫子は陰口を言う子たちとは意識して距離を保っていたという。
中学の卒業ちかくになって、倫子との間に会話が戻りはじめたとき、あのころが、いちばん気を遣ったよ、と一年生のころを振り返って言った。
「無視されてもさ、媚びは売らなかったよ。いやだもん。そういう子たちにね、朝、こっちからは、おはようって言わなかった。そしたらさ、むこうから挨拶するようになるんだね」
そのとき、「むこう」はこう言った。
朝、挨拶されないと、なんだか嫌われているんじゃないかと思ってさ、と。
「彼女も正直だよね。そういうことって、なかなか言えないよね」と、倫子は言った。
「誰だって、人から嫌われていると思われたくないんだね」
ありきたりな感慨ではあるけれど、女子中学生の切実な現場からの実感にはリアリティーがあった。
2
倫子は小学校の低学年のころから六年あまり、中学二年の終わりに近い今まで金曜日の夜に光代が開いている習字の教室にかよいつづけている。習字の教室は月に二日、夜の七時からはじまる。
習字のある金曜日、わたしが家にもどると、部活から帰った倫子はまだ悠然と夕食を摂っていた。壁の時計に目をやるとすでに教室ははじまっている。文字盤の針を目で進めると、すぐに出てもふた駅先の駅まえにある公民館につくのは習字がはじまって半時間のあとで、後半に間に合えば上出来だった。
「もう教室、はじまっているけど。まだ出ないの?」
休みや変更もあるから、確認の意味もあって、わたしはゆったりと訊いた。
「うん、これ食べたら行くよ」と、いそぐけしきもなく食べてつづけてから出て行った。
倫ちゃんが着いたら、すぐおわったのよ、と光代が口にするのをわたしはよく耳にした。
こんな時間感覚で大きくなったら世の中でやっていけるのだろうか、仕事で遅刻が常習になったら生活していけないではないか、とわたしは杞憂とは思いながらも気になる。時間に鷹揚な性質は大人になればなおるものなのか、それともいまのうちに――歯並びのように――矯正しておかなければならない性質のものだろうか、わたしは二股の道のまえに立った気持ちでときどき迷うことがある。
習字教室の遅刻が常習であることをむろん由紀は知っている。
「着いたときに、はじまっていると分かった時点で、あたしなら休みにするわね」
――なるほど。ふつうはそうかもしれない。遅れても休まずに行くことを評価し、よしとするかとわたしは思う。倫子にはうかがい知れない理解のとどかないところが多いけれど、なんだかほんわかしたところもある。それが、ま、なんとかなるかな、と楽観にすがっても大丈夫な気持ちをさそう。この楽観をさらにあと押ししてくれるのが倫子のメモの変化にみる成長の跡だった。
小学校にあがり、言葉を覚えていく過程はちいさなメモにも反映していて、保育園時代、玄関にのこした「それではいてきます」のひらがなに、小学校にあがると促音が入って「いってきます」となり、そうして気づけば「行ってきます」と漢字になっていった。文字に象徴される成長のスロープをゆっくりあがってゆく姿を目撃した感慨とそのときの先生への感謝の気持ちをわたしは記憶している。
小学校の六年間、年に二回ほどあった先生との個人面談で順番を待つあいだ、廊下に貼りだしてある倫子やほかの子たちの絵や作文を見ていると、子供たちの年々の成長はそこにはっきりでていた。倫子の六年間の成長を未来に延長すれば、いまの遅刻の癖もいずれなんとかなるだろう、とさしたる確証があるわけでもないままに、わたしはその期待に縋りつけるような気がした。そうして、先のことは考えないことにした。口でいったところで、改めるような子ではない、との思いが、それを後押しする。
3
「あれ?」
味噌汁を一口ふくんだ倫子の手がとまった。椀をおいて、中をのぞき込んでいる。箸の先で点をすくいとると、ティッシュペーパーにふれた。箸を引いたあとに黒い点が残った。ちいさな虫(コバエ)のようにみえた。
「ごめん、ごめん。すぐ替えてくる」とわたしが椀に手をのばしかけると、
「いいよ、もう出したから。お父さん、目が悪いからね」
(重複のため略)
4
中学時代、倫子は二、三か月に一回くらい遅刻した。
そうした日の朝、自律を優先する由紀とわたしの意見は一致していた。――たとえ遅刻しても起こさない。
それでも学校がはじまる時刻になっておきる気配がないとき、ふたりは二階の倫子の部屋のまえに立つことがある。
「どする? 起こそうか」
と、結論のきまっている問いかけをしてみる。
「いま起きないと学校、間に合わないわね」
口では、そう言って、相手の反応を確認しながら、ともに起こすつもりはない。そのまま階下に下りて待つことになる。
「ほら遅れるよ、って起こせたら手間がかからないのにね」
「そのほうがずっと楽だよね」
と、どちらからともなく口にしながら階段を見上げる。
わたしが起こさなかったのには、自己責任をはぐくむ目的以外にもうひとつの理由があった。歯止めがある。倫子は遅刻してあとから教室に入ることに恥ずかしさを感じると言っていた。家が近いあるクラスメートは遅刻するとわかった時点でその日は休んでしまうという。倫子にそれはなかったから起こさなくても休むことはないとの安心感があった。
教室のドアを先生があける時刻をすぎて、ようやくおきる気配がした。由紀とわたしは知らんぷりを装って下で娘をむかえる。
着替えをすませた倫子は、寝ぼけまなこで階段を下りてくると、恥かしそうに、おはよ―、とそれだけを言って、顔も洗わず、さしだした温かい牛乳を飲むゆとりもないままに走り出ていった。
なぜ起こしてくれなかったの、と苦情めいたことを口にしたことは保育園のときからこの八年間いっぺんもない。言えば由紀に叱られるのは目にみえている。寝過ごして遅刻をしても文句は言わずに黙ってでて行くというのが小学校からの習い性であり、中学生のこの朝もそれは変わらなかった。玄関のドアが閉まる音をたしかめたあとで由紀とわたしは、ふっと息を吐いて、お疲れさま、とねぎらいあう。
5
倫子が中学二年生の夏のことだった。
鍼灸の仕事から早めに帰って二階に上がると、倫子の部屋から由紀の大きな声がしていた。由紀が娘を怒鳴りつけている……、わたしは耳を疑った。わたしは自分の部屋に入れず、そのまま廊下に佇んだ。
うすいドアから話の内容は容易に耳に入ってくる。由紀の母が孫の倫子の誕生日に乏しい生活費から工面してお祝金を送ってくれた、その礼状を二週間経っても出していないことを由紀は問題にしている。
はらはらしながら、由紀が手をあげなければいいがと、とっさに思ったけれど、これまでそうしたことはなかったからその心配はすぐ消えた。むしろ、一言ですむはずの話が終わらないのは、倫子が反抗的な面を出して、譲らぬかまえをみせているからではないかと、そちらが気になりはじめている。倫子の声はまったく聞こえない。
どれほど叱ろうと、言葉であるかぎり、わたしは介入しないことに立ちながら心を固めた。由紀には母親としての方針と立場がある。そうしてなによりもお腹を痛めて産み五歳までひとりで育ててきた過去は重い。血縁のない遠慮もわたしをそとに立たせたままにしていた。おなじ話が繰り返されはじめたのもつらく、聞き疲れもあってわたしは、下の居間で待つことにした。
一階の居間のひろいガラス窓から、公園の密生している濃い緑が見える。高い木々の上の空を見あげると、宇宙を想像させるふかい青に漂白したような綿雲がゆったりと浮いている。
わたしは、結婚してからの八年間の由紀と倫子の関係をふり返った。言い爭いしたり険悪になったりした記憶はまったくない。ふたりの気のつよさからは信じられないほど、おたがいに気を遣って、言葉を丁寧に包んできたためであるとわたしはみている。由紀は娘への不満――だらしのないことなど――を、直接倫子に口にすることは少なかった。由紀の不満を耳にするとき、わたしは抑えている由紀の気持ちを知る。倫子も、けっして由紀の気持ちを害することは口にしなかった。母の欠点と思っていることも、生い立ちまで含めた広い視野と思いやりで包み、批判めいた言葉は一切、倫子の口から出たことはなかった。抑えていたのではなく、腹の中になかった。すくなくともわたしにはそう見えていた。
由紀が風呂に入ると、ひとりでいっぱいになる狭さをものともせずに倫子はあとから追うように入って行く。たまたま洗面所に歯ブラシをとりに行ったおりに、中からたのしげな話し声が反響してくることがある。ほぼ笑いにちかい声がこだまのように絶えない。それを耳にしたときわたしは淡い嫉妬を覚えたほどで、つきあいの長さからも血縁からもさらには性別からも嫉妬の立場にないことに気づいて、心のなかで苦笑した。
わたしは雲を見つめながら、倫子は幼いころ、母親にたいして崇拝にちかい信頼をおいていたことを思い出す。
倫子が光代にむかって「お父さん、いい人と結婚できてよかったよね」と言うせりふを、結婚当初から小学校の一、二年生のころまで幾度も耳にしたし、その都度わたしと光代は目を合わせて微笑んだ。わたしには「あたしがいいんじゃない、って言ってあげたから、お父さんはお母さんと結婚できたんだよ。良かったね」となんどか冗談っぽく恩にきせた。
このころ、倫子はすでに人情の機微がわかっていたから、抑えきれずにでてくる倫子の言葉の底にわたしは母由紀への崇拝のつよさを感じていた。それなのに……。
見つめるともなく見上げていた雲の下で森が横にすべりはじめた。
わたしは窓際をはなれて階段の下に立ってみた。まだ声がしている。ゆっくり上っていくと由紀の怒りの鉾先が、礼状の遅れからはなれて、謝らぬその態度に向いているようだった。苛立ちの分だけ、怒鳴り声は強くなっている。隣の家にも聞こえているはずだ。
このとき結婚してはじめて一触即発の気配と仲裁の必要をわたしは感じた。いつでも突入できる心づもりになってドアの外ですこし重心をおとして身構えた。
――まもなく声が落ちた。
ドアが開いて由紀がでてきた。わたしを見てはっと驚いたふうだった。ドアを後ろ手に閉めると、見たことのない険しさを目の端にのこして無言のままで下におりていった。
わたしはからだ全体の筋肉がゆるむのを感じて、大きく息を吐いた。
下におりてゆく由紀の背中を見下ろしていると、ドアが開いた。倫子と目が合う。平然としている。わたしは意外な感にうたれながら「どうした」と思わず声がでていた。倫子は微笑みさえみせて、
「あたしね、あやまらなかったよ」
といきなり言った。それは勝利の宣言のようにわたしに聞こえた。
「もしお母さんが、殴ってきたらさ、あたし、殴りかえすつもりだったんだよ」
「殴りかえす?」
意表をつかれた。あのはげしい叱責と怒声をあびながら、この子は殴りかえす用意をしていた……。わたしは唖然として言葉がでない。それがいつもの無意識の間になった。
「もしお母さんが平手で殴ってきたらさ、あたしも平手でやり返すつもりだったよ。げんこつだったら、あたしもげんこつで。殴り返すつもりでさ、準備してた」
その顔には得意の色さえ見える。見たことのない倫子が目のまえにいるとわたしは思った。言いおわると、倫子は奥に行き、椅子にゆっくりとすわった。
わたしも、となりの自分の部屋へきて、椅子にすわった。
いま、なにがおきていたのかわたしにはのみこめていない。見たことのない倫子の強情さ、頑固さにおどろき、冷静さにあきれ、ただ圧倒されている。
あの怒声をあびながら、頑として謝らずにとおしただけではなく、殴りかえす手段まで考えていた倫子の気の強さ、冷静さはどこからくるのだろうか。わたしは考え込む。なぜ母親のあの激怒をまえにひるまず、殴りかえす手段まで準備する冷静さを保てたのか。これが中学生の女の子なのか……。
そういえば、母親の由紀も売掛金の回収で暴力団の事務所に倫こんだ過去がある。朝の通勤電車に、仕事で使うためとはいえチャイナ服やサリーを着ていけるし、それをじろじろ見る人を、睨みつける気のつよさがある。この親にしてこの子ありなのか。それにしても由紀が手を挙げなくてよかった、よく堪えた、とわたしはそのことに感心し、安堵もしていた。
それから何日間かわたしの思いはこの日のできごとに傾いた。
なぜ、倫子はあの場ですぐに礼状を出す、とひとこと言わなかったのだろう、もしくは言えなかったのだろう。ごめん、これから出すよ、それですむ話である。相手の気持ちを瞬時に読み、それに即応できる回転のはやさと、思いやりを持っていたはずの倫子である。せまい浴室でいつも笑い声の絶えないふたりである。結婚して以後、ふたりの険悪な場面がなにひとつなかった母と娘である。これから出すね、といつでも言える状況にあった。あらゆる母と娘の関係のなかで、そのひとことをもっとも言いやすい環境が倫子のまえにととのっていたはずである。
しかし倫子はそうせずに、いや、そうできずに、心のなかは手掌をひらくか拳か、そちらにあった……。倫子がいま、自分の心が自分で自由にならない年齢にいることをさし引いても、わたしのなかに倫子の行動を理解できる棚はなかった。
倫子は、謝らなかったことを勝ちほこるのではなく、母親を怒鳴らせるまでに気持ちを昂らせてしまった自分の反抗的な態度を反省すべきではなかったか。猛烈に反省すべきではなかったか、自分自身の未来のために、とわたしは思った。
あれがもし自分であったなら……、わたしは倫子の立場に自分を立たせてみた。すんなりとあやまり、すぐに礼状を出すだろう。そのまともな想像にかすかな卑屈のけはいを覚えるほど、あたし謝らなかったよ、と言ったときの顔は颯爽としていた。しかし、それは暗い倫子の未来を予想させる。つかう顔の場面がちがう。あらゆる人間関係が想定されるなかで、もっとも使ってはいけない場面ではなかったか……、わたしの思いはここに落ちつく。
親の無理とはいえない求めにたいして、素直にしたがえずに反抗をつづけさせたあの気の強さ、頑固さがいずれ、仕事の場で出ることは避けられまい。わたしは倫子の人生のゆく手に暗く立ちこめた暗雲を見るおもいがする。生活のための糧(賃金)を得る仕事の場――勤務なら上司、自営ならクライアント――でそれが出れば金銭的に大きな損失をこうむる。馘ということばがよぎる。そうした未来が容易に想像できる。しかし、それにたいして、わたしはなすすべのないことも感じている。
由紀は、「そうなったら、それはそれであの子の学びよ」と勉強で示してきたように、仕事の面でもあきらめを楽観でくるむいつもの姿勢でいる。わたしも心のなかで右往左往したあげくに杞憂にはおわればいいと願いながら、親にできるのは、手をこまぬいてただ見守ることだけなのだと、けっきょくおなじ思いにゆきつくしかなかった。
6
中学時代の、親と子のかかわりはむずかしい。わたしは自分の中学時代をふり返ってみて、さしたる理由もないのに、胸がもやもやし、親が疎ましかったことを覚えている。中学生倫子も感情をもてあますことが多く、それまであった言葉の丸みが削れて、尖りがちになっていた。幸いなことに、わたしの鍼灸治療院の開院にともなって、多忙ゆえに、倫子との接触をさけようとしなくても、昔のように時間をともにできなくなっている。それでも一つ屋根の下にいると、つまらぬ言葉の応酬が、その場にいる由紀の眉をひそめさせることがしばしばあった。倫子の鋭くなった言葉の足跡がわたしのなかに残ることもあった。
食事をするときのテレビの視聴についても諍いはあった。三人の視線がテレビにむかいながら会話もなくスピーカーの人の声が部屋に満ちるなかで、ただ箸を動かす食事にわたしはある種の退廃を感じていた。わたしにはその日一日の話をしながらなごやかに食べたいという理想がある。しかし、それは由紀と倫子には価値観の押しつけと映った。ゆずれないこだわりだと自分では思っているが、ようはわたしのわがままである。それは意識している。
けれども、ときにはテレビを見ながらうわの空で食べたのでは命を絶たれた生き物に感謝しながら食べるべきではないかとか、うわの空では命に申しわけないではないか、とわたしが話すと由紀と倫子は、わかるけれど、しかし一方的に消そうとすることとは話がべつだ、とわたしがリモコンに手をのばすまえに、それを遠ざけた。
この母と子は気がつよい。十人分のつよさをひとりのなかに凝縮したくらいつよいとわたしは感じている。それがふたりいる。このふたりと、頑固親父の道をあえてとらずにいるわたしとでは議論のまえに結果はでている。
ある夏の夕方、わたしは食事中に思いあまってテレビ倫モコンの「切」を押したことがある。消えたテレビのまえでしばし間があってから、倫子は箸をゆっくりおくと、無言のまま立ち上がった。台所から盆をもってくると、意識した無表情を顔にはりつけたまま、淡々とテーブルの上の料理を一皿にまとめはじめた。わたしは呆気にとられて、ただ指と箸先を見つめる。幾皿かを載せた盆を手にすると、倫子は部屋を出た。いつもとかわらない足音が二階に上がっていく。二階にテレビはない。
ふたりになった部屋で、冷気を吹きだすエアコンの音だけが大きくなった。由紀はなにごともなかったかのように淡々と箸を口にはこんでいる。
すっかり暗くなった庭のむこうの森で蝉がうねりながらまだ鳴いている。やけっぱちになって、騒ぎ立てているようにわたしにはきこえていた。
「あたしね、遺伝上のお父さんてどんな人? ってこのまえ、ちらっとお母さんにきいてみたのね」
三年生もおわりのころ、倫子がこう言ってきた。めったに口を利かなくなっていた父娘(おやこ)関係のなかで、デリケートな話題をいきなりふられて、わたしはとまどった。そのとき、倫子が遺伝上、とつけたのは、自分に配慮してのことだとわたしはうけとった。
「べつにすごく知りたいとか、そんなんじゃなくてね、そのときだけふっとそんな気がしてさ」
と倫子は言った。訊かれた由紀はさっと表情をかたくして言わない、と口をつぐんだままだったという。倫子が母親に訊いたのも、そのことをわたしに話したのも、後にも先にもこのとき一回きりだったけれど、それは気をつかって意識的に話題にしなかったというよりも、じっさいのところ関心がそれほど強くなかったためであったようにわたしには思われる。母親である由紀の親子観には親とは自分がこの世に生まれるための媒介者にすぎないと冷静に見ているところがあって、倫子もそうした感覚になじんでいるようだった。
7
わたしはこれまでに、倫子が勉強で机にむかっている姿を見かけた記憶がほとんどない。たまに通りがかりに部屋で机にむかう姿を見かけたとき、「お、やっているね」、と褒めるために近づくと勉強ではなく、ノートにイラストを描いている最中であることがいつものことになっている。拍子抜けがわかっているのに、いつもはかない期待をしては裏切られる。それを由紀に話すと、あなたは諦めが悪い、とすこぶる正しい指摘をした。
わたしの気持を知らない倫子は、
「ねぇ、ねぇ。これ見てよ」と頼みもしないのに他のページを開く。授業中に書いたものだという。先生の似顔絵やまゆ(・・)(家の同居猫)のイラストだったりする。なかなかの出来で興味もあるが、ほめることは意識してひかえる。それにしても、なんで授業中なのか、とわたしは思う。
「だってさ、すっごく退屈なんだもん」
その少しまえのことだった。倫子はどこまで本気なのかわからないまじめな顔で言った。
「あたしね、お父さん、五分も勉強すると頭から煙がでてくるの」
面白い比喩に思わず声をだして笑ったあとで、意味するところの深刻さに気づいたわたしはすぐ後悔した。五分以内でできる中学生の勉強はない。また、別の日には、
「あたしね、十五分も勉強するとさ、頭が爆発しそうになるんだよ」
と、それが勉強しなくてもよい免罪符であるかのように、嬉しそうな顔で言ったこともある。とり合わないでいると、「ねぇ、ほんとなんだからぁ」と、わたしの肘をゆする。
別々の日に口にしたふたつの比喩が、五分と十五分の差を煙と爆発の差でつかい分けているところをみると、倫子のなかで、いつも浮かぶイメージなのだろうか。わたしはこれらの比喩を耳にしたあとで、倫子の行く末を想い、その都度ふかい息を吐いた。
また、べつの日。食後にソファーでのんびりしていると、隣にきて、
「あたしという子はねお父さん、勉強ができない星の下に生まれてきたのね」と、自分で言って自分でうなずいていたことがある。
「できない人生を選んできたの?」
「そうよ」と言ってから、
「こんど生まれてくるときにはさ」
と、きらめくような目になった。
「勉強が好きな子に生まれてこようと思うの」倫子は来世を信じていると、いつも言っているから本人に冗談のつもりはない。
「そうなんだ。こんどは勉強が好きな子に生まれたいんだね」
「そうね、次にはそうなりたいわね」
「ーーこの世ではだめなの?」
少し間があって、
「もう勉強が嫌いな子に生まれちゃったからね、手遅れだね」
「そう……」ようやく相槌だけをうって、つぎの言葉をさがしていると、
「あ、あとね、歌も上手な人に生まれかわりたいな」
と勉強のことはわすれて夢を語りはじめた。
その夜、あたしは勉強できない星の下に生まれてきたの、と言った娘の顔を思い出したとき、もし自分が自営業という独立独歩の人生ではなく、雇用される職業ーー成績・学歴と収入との関係が深いーーについていたなら、成績にまつわる娘の将来への不安とストレスはさぞ強かったであろうと思った。
8
由紀は知人の紹介で霊視能力があるという人に中学二年になる倫子のことを電話で相談してもらったことがある。その人は看護師さんで、夜勤のときに意識不明で臨終がちかい患者さんが深夜、廊下に立っているのが見えるという。その朝にきまって亡くなる。気味がわるくて夜勤のない病院に転職した。こうした能力は信じる側も否定する側も客観的な手がかりはないけれど、由紀も倫子もこうした能力を信じている。
由紀は自分の相談のあとで、あらかじめ伝えておいた倫子の生年月日と名前だけで見立ててもらった。終日テレビにかじりついていて、まったく勉強しない娘の悩みにたいして、その看護師さんは、以下を答えてくれた。
――テレビは、まだ世の中の知識がない娘さんにとって学びなので安心して見せてやってかまわない。さらに、
――現実の界では、欠席もせずに学校にきちんと通っているしテニス部も休まずにでている。心配はいらない、とその理由も語ってくれた。
言われてみれば、たしかにそのとおりだった。学校の遅刻、欠席はほとんどない。テニスも部でいちばん下手だと自分でも自覚していながら、それでもやめないでいる。自分の出ない――敗退したために出られない――大会の試合でも日曜日に早起きして応援に行く。審判の当番がくれば二時間もかけて都心の会場に行き役目をはたしている。学校のない土曜日、日曜日には午後になってようやく寝ぼけ眼(まなこ)で起きてくる倫子が、試合や役目のある日には早起きをしてでかけていく。なるほど、言われてみればそのとおりなのである。身近にいながら娘のプラスの面に気づかないできた自分の迂闊さにわたしは顔を温かいタオルでぬぐわれたような思いがする。
その人の能力に半信半疑ながら――とくにテレビの見解は受け入れがたかったけれど――倫子の美点に目をむけさせてくれたことに感謝し、彼女のことばを信頼してもいいような気持ちがわたしのなかに生じた。
「それからね」と由紀がつけ加えた。
「倫子は、すばらしい娘なんですってよ」
わたしたちは半分は肯定し、半分については首をかしげた。どう見てもそう思えないところがある。
たとえば、わたしと由紀が対人関係でもっとも重要視している感謝の気持ち、これが倫子には欠如している。中学校の紹介でボランティアで英語をおしえてくれているS先生にたいしても感謝の気持ちは無いように見える。先生は市の児童センターをかりて希望した数人の生徒に日曜日の午前中、おしえてくれる。開始の時間までに部屋をあけ、机をそろえ、生徒を待っていてくれる。ほかの生徒が欠席して、倫子がひとりの時期もあった。先生が自分ひとりを待っていてくれる、そのときでさえ、倫子は開始の時刻になってから急ぐふうもなく家をでてゆく。さいわい児童センターまでは近いけれど、それでも数分かかるから、その分だけ遅れる。
ふた親は遅刻しては先生に失礼である、少なくとも先にいって待つべきで、できるなら机の準備をしておくのが礼儀ではないか、そう諭すが遅刻は癖のようになおらないし、恬然としてなおす気配はない。毎回、判をおしたように遅れる倫子には、じぶんひとりのためにボランティアで教えてくれる先生に感謝する気持ちがあるのだろうか、それがふたりの共通の思いだった。その気持ちが、すばらしいお子さん、というその人の見解をうけいれることに多少の引っ掛かりを覚えた。
夕方、部活で疲れきってかえってきた倫子に、由紀は看護師さんの能力とその見立ての話をした。
「おまえはね、すばらしい娘さんなんだってよ」
「え、ほんとにぃ!」
倫子の顔が瞬時にかがやいた。喜色を満面にあらわしながら、身をよじるようにして喜んでいる。
「わー。あたしって、すばらしい娘さんなのね――」
感極まって力が抜けたのだろうか、床にへたりこむように腰をおろした。霊能力を信じている倫子の心にその人の言葉はすなおに浸透してゆく。
「そうなの、そうなの――。あたしってすばらしい娘さんなの――」
と、おなじことを口走りながら、床の上でのたうつように心と体で喜びを味わっている。それはわたしが倫子と出会ってからのここ八年間ではじめて見る姿だった。わたしは、しばらく倫子から目をはなせないでいた。
人間は、褒められるとこれほどまでに嬉しいものなのか……、後日、倫子のあの晩の姿をおもいうかべるたびに、わたしは人間の芯に触れるたような思いがする。この感覚は自己承認欲求という学術用語を小さく感じさせた。
9
鍼灸の仕事から帰って部屋で着替えていると、倫子が入り口に立って、「ちょっと、いい?」と言いながら、恥ずかしそうに入ってきた。
「あのさ、お父さん、ちょっと教えて欲しいことがあるんだけどぉ」と体積の計算方法を訊いてきた。回答すると、
「そうかそうか、そうなんだね。ありがとね」
と、出ていこうとした。忘れたのではなく、計算方法をはじめて知ったように聞こえた。まさか? と疑いが生じてきて、「ちょっと」とわたしは倫子の背中に声をかけた。
「体積ってさ、小学校で習わなかった?」
このくらいまでなら嫌味にならないだろうと、わたしは笑いにまぎらして訊いてみる。振り返った倫子は、
「習ったと思うけど……あれってさ、嫌がらせだと思ってた」
「嫌がらせ……」
意表を衝かれて、わたしはいつものように絶句し、あとがつづかない。
「――体積の計算って、あれ、嫌がらせだったんだ……」
「そうだよ。嫌がらせだね。ありがとね」
それだけを言い残すと、呆然としているわたしの顔を見て笑いながら、そそくさと出ていった。
わたしは、倫子の閉めていった襖に描かれてある仙人に目をやった。遠くの雲を見上げているそのとぼけているような、笑っているような顔から眼が離せないでいた。
体積の計算が、あの子には嫌がらせだった。
誰しも自分に興味のないことに、学習の意欲はわかない。しかし倫子は体積の計算を興味や意欲がわかないという次元ではなく、学校の嫌がらせと感じていた。+――嫌がらせ。わたしには想像のはるかにおよばない感覚であり、この言葉が以後、わたしのなかでこだまのように繰り返して意識にのぼった。
勉強が苦手とか、引け目といった受け身の感覚ではなく、嫌がらせ、の言葉には学科と対等に渡りあっている感覚がある。劣等感の意識はみじんもない。差しで勝負している感さえある。そこに気持ちが向いたとき、わたしはある種のさわやかさを覚えた。
わたしは立ちあがって、二階の窓をあけた。窓から初夏の森のかすかに甘みを含んだ青い匂いがただよってくる。緑に染まった広大な公園の森に目を落としながら、椅子にすわった。
体積を求める問題は、わたしにはわくわくするゲーム、つまり遊びであった。算数で体積の計算方法を知ったときにも、この世にはそういう概念がある、へー、そうなんだ! とある種の心のときめきがあった。
それが倫子にとっては嫌がらせだった……。わたしは倫子に同情した。小学校、中学校の教室という空間のなかに、倫子がどんな気持ちですわってきたのだろうか、その立場になってわたしは想像をめぐらせてみる。嫌がらせ、の感覚ですわる四十五分間は長かったであろう。
気づいてみればカリキュラムと相性がわるい一部の生徒にとって学校は空間と時間の強制の場でもあるのだった。決められた場所(教室)に、指定された時間、そこにすわることを義務づけられる、もしくは強制される。興味がなくてもそこから外れることは許されない……。もちろん、教育をうけるのは本人の権利であり税金で受けさせてもらっている。ありがたいことではある。先生に感謝も惜しまない。けれども、倫子の気持ちも察するに余りがあり、あわれにも思う。この子は長い時間を学校のかたい椅子のうえで「嫌がらせ」に耐えてきたのだ。
そのとき同時に、倫子にたいして小学校に入学してから、中学三年生までの九年間、通知表をまえに説教したことが夫婦ともになかったことを思い出していた。これでよかったのだとわたしは安堵した。
「あたしはね、勉強しろしろ、って言わない親を選んで産まれてきたの」と本音を軽口にのせる倫子の口癖を思い出す。
教室での辛抱と退屈の結果である成績――それはとうぜんよいはずがない――を家に帰ってから咎められたのでは、倫子の立つ瀬がない。不勉強を叱るのは親の子供への不満あるいは将来への不安の発露にすぎないのだ、とわたしは思う。成績の悪さを責めていたら、倫子の貴重な九年の日々をあやうく暗く塗りこめてしまうところだった。
と、そこまで考えたところで、わたしにはセンチメンタルに傾きすぎたかな、との思いも湧いてくる。その数日まえに、倫子はわたしに意味ありげな笑を見せながら、こう言ったものだった。
「あたしね、もし勉強しろしろって、しつこく言われつづけていたらさ、きっとグレてたと思うよ」
頑固で強情な倫子ならやりかねないと思って気をとられていたら、にやり、といたずらっ子のような眼をして言った。
「よかったね、お父さん」
語尾があがって聞こえた。
10
中学二年の一学期、期末のテストが返ってきた日のことだった。
テニスの部活からかえった倫子の、ただいまという声が聞こえた。足音が台所にきて、
「ねぇ、ねぇ、ちょっときいてよ――」
と、めったに見せない嬉しそうな顔をしている。会話のめっきり減っていた中での、めずらしく積極的な話しかけで、とびきり面白い話をもってきていそうだった。
「ちょっと待った。いますぐいくから」
(重複のため略します)
11
由紀は学生時代に努力家だったけれど、娘には勉強を強要しない。高卒ゆえに仕事で数々のマイナスをこうむってきた経験があるのに、娘をぜひ大卒に、とは思わないし押しつけもしない。諦めているとはいえ、やはりその姿勢にわたしは共感を覚えていた。由紀は倫子に、勉強がきらいなら無理して高校に行かなくてもいい、なんなら中学卒でもいい、とまで言っていた。その気持ちが義務教育をうけてきた八年間の倫子の気持ちに、ほかの同級生にはない平安をもたらしてきた。
ところが、その由紀の姿勢が中学の三年生になったとき、逆に不安をよびおこすこととなった。倫子は慌てだした。
「お母さんさ、あたしが勉強しないのならむりして高校へ行かなくてもいいって言っていたけどさ、あれたぶん本気だよ」とわたしに不安げに言う。
わたしも由紀の本音だと感じている。いまの日本では、中学卒業と高校卒業では、そのあとの職業を選択するうえでの差は大きい。手に職をつけようとしても、専門学校は高校を卒業していないと受験さえできない。
ひと一倍不安がるけれど、それが勉強にかりたてる力にはならないという不思議な資質をもつ倫子が勉強に精を出すようになることはなく、あいかわらずテレビにすいよせられる日々がつづいていた。
そのころ、倫子は塾通いを希望してきた。急に成績のよくなった友達が塾に行っているときいて焦りがでてきたように見うけられた。しかし通うことにふた親は同意しなかった。
由紀は経済的な理由から反対し、わたしは学生時代に学習塾の講師や家庭教師をした経験を盾にしていた。たとえ塾へ行ったところで、自分で予習、復習をしなければ効果はない。勉強をはじめると「五分で頭から煙がでて」、「十五分で爆発する」倫子では、塾の効果はないとの確信がわたしにはあった。
みんなが行っているから、とふつうなら親への殺し文句になりそうなせりふも、由紀には通らなかった。人は人、というのが由紀のゆるがない人生観で、倫子がもし「みんなが」を口にすれば、反対はかえってつよくなることを経験で知っている。倫子は由紀のまえではこの言葉をけっして口にしないし、わたしも聞いた記憶はない。それをわたしにはぶつけてくる。
「ねえ、どうして皆が行かしてもらっているのにさ、うちはだめなの?」
と由紀のいないところでそっと訴えるようにわたしに訊いてくる。質問のかたちをとった要望であり、由紀には無効であっても、わたしには「みんなが」のせりふが一定の効果があることを経験で知っている。じっさいわたしは不安感が人一倍強い倫子の願いをうけ流しつづけていることを不憫に思いはじめている。倫子もそれを敏感に感じとっている。情に働きかけるとうごきやすいわたしの質を、意識せずにいわば直感で読みとっている。
「お父さんさ、あたしの成績があがらなくてもいいと思っているんでしょ」
なんど目かの願いのときから、倫子はこの挑発めいたせりふを口にするようになっている。わたしは首をふりながら、
「あのさ、塾に魔法のような力があるって、思ってるよね? 塾にいけば自動的に成績があがるって」
わたしが発するこの質問が、拒否の気持ちからでていることを感じとっている倫子はむろんつよく否定する。しかし、倫子はこの幻想をもっているし、日々、それがふくらみつつあることが、これまでの数週間に、幾度か繰り返されたやりとりでわたしにはわかる。
「ただ塾へ行っても、それだけじゃなあ」と、わたしは理屈よりも情にとどかせようとして意識してしみじみと言う。そのあとで、予習や復習をしないと通っても効果がないことをくりかえす。倫子はきまって話をそらす。
「うそ。ほんとうはさ、お金、出したくないんでしょ」
わたしの反対する理由が費用ではないことを知っているから、縋りつくような声になる。泣きそうな顔になることもある。これがいちばんわたしには効果がある。
――お金。倫子は幼いころから、親に経済的な負担がかかることにたいして無理を言ったことはない。幼いころでさえ、スーパーでお菓子をねだっても、高い、のひとことであきらめたことをわたしはこのころ頻繁に思い出した。その娘がこれほどつよく言いつづけるのは受験という未知への不安が非常に強いこと示している。その不安が塾で解消できるように倫子にはみえている。
拒否される時間の経過とともに、倫子のなかでは幻想――塾でかならず得られるすばららしい果実――が熟してくる一方のようだった。倫子の思いは理屈をこえてわたしにせまってきている……。
言葉では通じないことが、この世の中には多い。むしろ通じることはまれであると、わたしはこのときも思った。じっさいに塾へ行って結果が出ないことを自分で体験してみるしかないところまできていた。
わたしは塾通いを認める方向にすこしずつおされてきたし、それをみていた由紀も倫子とわたしの気持ちを知って折れた。
――倫子は晴れて、ながい間あこがれていた塾生となって、通いはじめた。
懇願を尽くしてしてようやく通うことになった塾だったけれど……。結局、半年も通わずに倫子は自分から塾をやめることにした。
「やっぱ、だめだわ。塾、やめるよ」倫子はさっぱりとした表情で言った。中間、期末のテスト結果にいっこうに反映しない現実をつきつけられているうちに、それまで倫子のなかで膨れあがっていた幻想がきえた。予習・復習をしないのだからとうぜんの帰結なのだが、わたしには倫子の希望の風船がしぼんだように見えた。
倫子の決断には親の経済的な負担への配慮もあったはずで、それをふくめての結論だろうけれど、これがやめる決断のおもな動機ではないことをわたしは願った。成績が上がらないから塾をやめるという報告をうけたとき、ほら、やっぱりお父さんの言ったとおりだろ、の言葉をかろうじて喉もとにとどめたのは自分にしては上出来だったと、わたしはそのときを振り返って満足した。
そうできたのは、これまで倫子が無意識に示してきた人を傷つけない話し方、少なくとも相手の気分を悪くしないために言葉をのみこんできた、これまでの数々のお手本の成果であると、わたしははっきり自覚していた。倫子自身が自覚していない言葉の底までふくめていえば、無意識の薫陶の結果がこの場面で生きたのだと思った。
もし塾をやめる決断が、親の負担も考慮しての結論であったのなら、ほらね、やっぱり、との言葉は倫子の気持ちを傷つける。配慮した相手からその言葉を聞けば傷はふかくなる。それを回避できたことにわたしはすこし安堵した。
わたしは、塾をやめると決心したときの動機を、その後も倫子にまだ訊いていないことに気がついた。毎日いっしょに暮らしていながら、そうして無数の会話を交わしながら、だいじなことを訊きそびれて日々は過ぎてゆく。
12
中学三年の暮れだった。二学期の成績をもとに、出願する高校をきめる三者面談があった。
暗い雲が朝から重く空を覆っていて、いまにも雨が降りだしてきそうだった。
昨夜見せられた試験の結果では、期末試験の各科目の点数が、どれも平均点よりもおおむね十点はひくく、二十点以上ひくい科目もいくつかあった。成績のふるわない子の親としてこの日、ふたたびあの担任に会わなければならない。中学校へむかうわたしの足は重かった。
「いやなら来なくていいよ。ひとりで行くから」すぐうしろで声がした。いつの間にか追いついている。
振りむくと、見たことのない暗い目がこちらを見ていた。
わたしは中学校まで、歩道のアスファルトの脇に生える冬枯れの草を目でひとつひとつ拾いながら歩いた。倫子は離れたままでついてきた。
担任は音楽の女性教師で、面談は一学期末についで二度目だった。受験期の中学三年の担任とはいえ、音楽という芸術の世界にいる――すくなくとも若いころはいた――のだから点数とは距離をおいた存在でいてほしかったけれど、この女性はむしろ受験体制に率先して加わっているようにわたしには感じられた。
担任は、感情ののらない顔で、倫子の成績で入れる都立高校として普通科を一校と学区内にある工業高校と商業高校の名をあげた。体積の計算方法や一割引きの意味を、さいきんようやく理解した数字音痴の倫子には数字が基礎にある工業高校も商業高校も選択のそとにあった。ボーダーライン上にある普通科を落ちたら入れる高校がなくなる。浪人、という言葉も出た。
ふたりは肩をおとして帰路についた。
ぎりぎりで可能かもしれないといわれた普通科の都立高校の説明会に後日、倫子は行った。帰ってから、そこは荒れている高校で一年で三割がやめると報告をする倫子の顔は暗かった。
ここに繊細な倫子はやれない。公立という選択肢はなかった。通学が可能な私立高校で、「自由」が校名にある二校から絞ったのが西武線の飯能駅からスクールバスで十五分という、「自由の森学園高校」だった。
娘の個性を伸ばせるのはここしかないと思ったし、併願では校長推薦がでないこともあって他校には出願していない。背水の陣だった。
13
通知表をもって、まもなく倫子が帰ってくる。わたしは二階にある倫子の部屋のカーテンを開いて、三軒家の並んだ先にある曲がり角を見おろした。まだ姿はない。
中学校の校長推薦があれば学力試験より面接を重視するこの高校に、まず入学できるだろうが、問題はその推薦の条件として通知表に「一」がないことという、普通の子には難なく通れる関門が、先生の再三の催促を無視しつづけて宿題を出さなかった強情さをもつ倫子にとっては厚い壁になっていることだった。けっきょく出さなかった科目がいくつもあることなんて昨夜まで聞かされていなかった。教師が倫子の反抗的な態度を不快に感じて「一」をつければ、それまでである。
一年あまりまえ、由紀の叱責にたいして謝らずに殴りかえす用意をしていた反抗的な態度を思い出して、わたしの不安は増した。今朝、不安気にでていった倫子の顔がまたうかんできた。わたしは下におりて待つことにした。
わたしは居間にきて、大きな窓のまえに立つと、外に目をやった。
庭の柵のむこうに広がる小金井公園の木々がすっかり見通しのきく林になっている。わたしは早くすぎていった今年の秋を思った。
ただいま! という倫子の明るい声が玄関でした。(終わり)