5歳で親子になった娘とわたし 中学2年のテストの結果が
倫子、中学二年の一学期、期末のテストが返ってきた日のことだった。
夕食の準備をはじめたばかりのわたしは沸騰した鍋の火をとめて、味噌汁の出汁をとるために袋から削り節をつかんで湯におとしていた。たちのぼる香りをかぎながら、できれば鰹節にしたいけど高いからな、と思いかけたところへ、テニスの部活からかえった倫子の、ただいまという声が聞こえた。足音が台所にきて、
「ねぇ、ねぇ、ちょっときいてよ――」
と、めったに見せない嬉しそうな顔をしている。会話のめっきり減っていた中での、めずらしく積極的な話しかけで、とびきり面白い話をもってきていそうだった。
「ちょっと待った。いますぐいくから」
いつもは調理の途中で鍋に目をやりながら、削り節が沈みきったところで取りだしていたが、いまは時間がよめないからタイマーに任せることにした。わたしはわくわくしながらガスの火をひとまず消す。タイマーの設定を四分か五分にしようか迷って五分の設定で押す。
居間のソファーで待つ倫子に「どうした」と言いながらわたしは並んでソファーにすわった。
「ねえ、今日さ」と倫子はすわりなおした。「数学の期末テストが返ってきたんだけどさ、こんどもおんなじ十六点だったんだよ」
と、言った。楽しげなひびきがある。
「十六点って、百点満点で?」
まさかとは思いながら、わたしは訊いてみた。
「百点満点で連続で十六点だからさ、やばいっちゃ、やばいけどね」
と笑った。わたしは点数の低さに愕然としたが、倫子は、やばい、と口にしながら目には少しの陰りもない。この点数で、嬉しそうに笑っている。
「連続って、中間試験でも十六点だったの?」
「うん、中間も十六点。期末も十六点。ぴったりおなじだったんだよ、これってさ、感動しない?!」
「感動?……。しないしない」
「ええぇぇ、しないのぉ。ぴったりおなじ点だったのにぃ」
わたしは十六点に呆然としていてあとがつづかない。言葉が出ないから、いつもの無意識の沈黙になる。思わず眉をひそめていた自分に気づいてゆるめた。
「みんなが見にきてさ、そしたら友達がね」
「え、ちょっと待った」
ひと息ついて訊いた。
「その答案用紙、みんなに見せたんだ」
わたしのなかに、十六点の用紙をかこむ同級生の姿がうかんだ。
「うん、いつもそうだよ。見せるよ。そしたらね、『わぁ、あたしより下がいた』って、うしろの席の友達がさ、喜んでた」
「……」
「あたしさあ、お父さん、人助けしたんだよ」
「人助け……」
「だって、自分より下の人がいると安心するでしょう」
「まあ。な……」
わたしはそれしか出ない。十六点ではね、と言いかけて、それを口にしないことで精一杯である。
「いいのお」と、倫子は「お」に力を入れた。
わたしの困惑を知ってか知らずか、つづきを喋りだした。
「男の子にさあ『あ、おまえって馬鹿だったんだ』っていわれちゃったよ」
倫子のその口調が(あ、おまえきのう休んだんだ)、と言われたときとおなじようだ、とわたしにはきこえる。
倫子は発声が明瞭で、ことばも達者だから一見、利発にみえる。倫子ってさ、いろいろ考えているし本もいっぱいを読んでいるでしょ? と友達によく言われるらしい。ううん、ぜんぜん読んでないよ、これまでに読んだの映画の後で読んだ『ハリーポッター』だけ、と答えたという話をわたしは思いだした。
「その子が驚いたの、わかるなあ」
と、ようやく自分の感想にぴたりの言葉をみつけて口にした。
「そういえば、ゆいちゃん、って子がね」と話題を変えてきた。
わたしはつぎつぎと手品を見せられているようで、展開についてゆくだけでいっぱいになっている。
「お母さんにテストの点をみせたらね、『あなたって馬鹿なのかしら』、って言われてさ、泣いちゃったんだって」
「泣いたんだ、ゆいちゃんて子」
たしかにそうした子がいそうだと思う。
「でも、倫子よりよい点だったんだろう」
口にした瞬間、わたしは、はっ、と後悔した。言わなくてもいいことだ、いや、言ってはならない言葉だ。
さいわいなことに、この失言は倫子の耳を素通りしてくれた。
「できなかった一問か二問をくやしがっているような優等生だもん。だから親に馬鹿って言われたの、はじめてなんだって」
「はじめて、か」
わたしは意識して笑顔をつくってから言った。
「倫子は馬鹿って言われることに慣れているもんなぁ」
「馬鹿って言われていちいち泣いていたら、うちじゃ生きていけないよね」
そういって倫子は楽しげに笑った。
わたしは、馬鹿という言葉を倫子にたいして使ったことがない。意識して口にしないのではなく、そう思ったことがないからだった。人の気持ちを的確に読めること、そうして、それにたいして適切にしかも瞬間的・反射的に応じることは、馬鹿にはできない。口にしていい言葉とそうでない言葉も時と場合で峻別できている。
倫子は母親の「おバカ」と軽口を聞きなれている。これは何百回と耳にしてきた。回数が多いためだろうか、倫子の耳になじんで、もともとあった毒気がきえている。男の子の感想にまったく動じなかったのも、それを笑えるのも、「おバカ」と言われつづけてきたことの慣れであろう、すくなくとも、ひとつの要因にはなっているとわたしにはみえる。
ひとしきり喋りおわると「感動」話が一段落したとみたのか、「じゃあね」、とさっぱりした顔で二階に上がっていった。