見出し画像

process 4: 著者からGOサインがでました!

前回の難関【process 3: 原稿を練る作業】を、もう少し先まで、木立の編集パートナー: 小林晃子さんに託したところ、こんな風に「きたやまおさむさんへの《紙上インタビュー》Question」を進めてくださいました。


chapter 1 愛の意味
# 1 会わないと話は始まらない
今日、皆さんに関心を持っていただきたいことは、日本語には、日本人には特に「同音異義語」というのがすごく多いんですね。
Q: 作詞の際には歌によって「同音異義語」を意識して使い分けておられるようなことはありましたか? また、「音」の響きと「漢字/ひらがな」にしたときに何か違いがあるのでしょうか?
日本語には、「あい」というと、ここに書いているような、「会い」「合い」「逢い」というような動詞が出てきますし、名詞的なものとしては、この「愛」「間」(「あいだ」とも読みますが)があり、こういったものと心理的には深く関係があるように私たちは思うんです。たしかに、「実は関係がない。言葉としては無関係だ」という意見もありますが、わたしは関係あるように思うんです。
Q:「遭い」「遇い」という字もありますね。字義としては各々全く異なりますが、音が同じことで、心理的に何か同じものとして感じられるところがある、ということでしょうか? 「心理的に関係がある」ということについて、もう少し詳しく教えてください。
私たちにとっては、心理的に重要なことですので、この「愛」と「間」というようなことと深くかかわり合いがあると私は考えます。その「間」が近くなることが「会う」こと。だから、「出会う」ことは、「愛」の核心にあるのではないか。これが、今日の講義の結論みたいな話なんです。実は、「愛」とは何かというと、「会う」こと。会わないことには話にならないということが言えるかもしれないなと私は思っています。
Q:「話になる」イコール「交流が成り立つ」と考えると「相」という字も連想します。心理的に関係がありそうな字としては「相」「合い」「哀」などが思いつくのですが、これらの字についてはいかがでしょうか?


# 2 「愛」の遍歴
それでは、漢字の「愛」の歴史を少したどってみましょう。日本語には「愛」の文字はあっても、それは上から下、男から女、あるいは、親から子への自己本位で自己中心的な愛を意味していたものである。「愛」というのは、非常に上下関係の強い言葉であるというのが、西郷信綱先生のご意見です。
Q: 上から下に与えるという「上から目線」は、“愛でる”という言葉のもつ「一方通行」的なニュアンスともつながるのでしょうか? また、下から上、子から親への逆ベクトルの「愛」は日本には存在しなかったのでしょうか?
さらに、「愛」は、もともと中国から輸入された漢語であって、仏教思想の影響を受けたことも関係して、「愛」は、性愛や本能的な愛情を指し、執着や貪欲として使用されました。非常に意味が偏っていたというわけです。
Q: 例えば「愛撫」といった語に代表されるように、これはいわゆるエロス的な「愛」に近いと思うのですが、兄弟や友人などに対する対等な関係における「慈悲」「哀れみ」に近い「慈愛」(孔子の「仁」などのような?)のような要素は完全に排除されたものとして捉えられたということでしょうか?
 その場合、そうした「慈愛」の「愛」はどのような言葉で表現されていたのでしょうか?(あるいは、されていなかったのでしょうか)

 

 そして、このサンプルを添えて提案をもちかけたところ、著者(話し手)きたやまおさむさんは、この《紙上インタビュー》作戦に賛同してくださったのです。年始から協同作業をスタートしよう! ということになりました!! 

 ということで、晃子さんのQuestionに応えて頂くかたちで、webセミナーの記録から「本の原稿」へと膨らんでいく、【singleソース/multipleメディア】プロジェクトのはじまり、はじまり~となりました。


 ただ... ひと安心も束の間... まだまだ、工夫のしどころは沢山あります。

 そのひとつとして... きたやまおさむさんのアイデアとして、そうした質問を実際に「聞いてほしい」(紙の言葉でなくて声で?)という発想を戴きました。さて、さて、どんな工夫でこの発想を活かして取材できましょう?

 ―― ここでまた難関となるのは、コロナ状況で「リアルに会って取材できない」ということ、なのでありますね。皆さまなら、どのように切り抜けられますでしょう? ヒントやアドバイスをぜひ乞いたく思います! です!!



つづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?