もしツル Scene 4
空の上から東京を見るのは初めてだった。今日はお天気も良いし、五月の風も飛ぶのにちょうど良い強さで、羽根を広げて気持ちよく飛び回ることができた。真下は南青山のあたり。カルティエのおしゃれな建物が小さく見え、青山墓地の墓石がドミノのように並んでいるのも見えた。
外苑前、神宮球場、表参道のあたりを何度か行ったり来たりしているうちに、お腹が空いてきた。私は、どこかに降りて餌を探そうと思って、周囲を眺め渡した。するとすぐ目の前に明治神宮の森が見えたので、そこを目指してゆっくり大きく羽根を打ち振った。
しばらく森の上を旋回して様子をうかがってみた。広い敷地の中に、大きな社殿に続く一筋の白い参道が見え、赤い袴を穿いた二人の女性に案内された参拝者の団体がぞろぞろと歩いていた。小高くそびえる木々に囲まれた神社の風景を見ていると、なぜとなく故郷の釧路湿原を思い出した。
凶暴な鳥や獣がいないかどうかを慎重に確かめながら、降りることができる場所を探していると、森の中に見え隠れする池が目に入ってきた。それは、好物のカエルやザリガニが住んでいそうな小さな池だった。私はゆっくり降下した。
池の水は緑色に淀んでいてきれいだとは言えなかったけれど、水際には思ったとおり、カエルやザリガニだけでなくドジョウもいた。私は嬉しくなって、それらを夢中で啄ばんだ。
しばらくして、後ろに気配を感じて首を回してみると、二羽のカラスが私を睨みつけていた。一羽は大きな体で目が鋭く、もう一羽は小さい体をそっくり返すようにして胸を張っていた。二羽のカラスは私の目の前まで歩み寄ってきた。後退りして逃げる態勢をした時、大きい方のカラスが――
《姐さん、見かけない顔だね。よそ者が、ここで餌を荒らしてもらっては困るなあ》と、意外に静かに言った。
《ごめんなさい、でもお腹がペコペコだったんです。それに、わたしは行くところがないんです。迷惑をかけませんから、どうかしばらくの間、ここに居させて下さいませんか》と、長い首を池の水に漬けるようにしてお願いした。
《何を言ってやがる。それは無理だな。兄貴が言っただろう。ここは俺たちの縄張りだ! おい、聞いているのか!》と、小さいカラスが下から睨み上げながら凄んできた。
《わたしは、悪いことはしていません》と言い返すと、小さいカラスは、
《縄張りを荒らしているのは、悪いことじゃないと言う気か? いいだろう、白黒はっきりさせようじゃないか!》と大声を上げた。すると、大きいカラスが、
《おまえは黙っていろ! カラスがツルに向かって「白黒はっきりさせろ」と言ってどうする? 恥ずかしいことを言うな!》と言って、真っ黒な羽根で思いっきり小さいカラスの頭をはたいた。
小さいカラスが項を垂れて《兄貴すいませんでした》と謝ると、大きなカラスが《引っ込んでいろ!》と強く一括した。私は唖然としてその会話を聞いていた。一息おいて大きい方のカラスが、
《姐さん、見苦しいところを見せてしまったけれど、こいつの言うとおりでね。ここは俺たちの縄張りなんだ。ただでさえ少ない餌を、よそ者に荒らされるのは困るんだよ。今日だけは見なかったことにしてやるから、さっさと出てくれないか》と、穏やかだけど有無を言わせない口調で言った。
私はどうすればいいのか分からなかった。
〈ここを追い出されたら、いったいどこへ行けばいいのだろう〉
それを思うと不安で心が押しつぶされそうになった。二羽のカラスは一歩も動かずにじっと私を見ていた。
〈襲われるかもしれない〉と思った。
恐怖が羽根の先まで走り、慌てて飛び立った。渾身の力を籠めて羽ばたき、できるだけ遠くまで飛んで行こうと思った……。
明治神宮の森が見えなくなるところまで飛んだ時、これからどうすればいいのか分からず、途方に暮れてしまった。
〈とにかくどこかに行かなければならない〉
このままではどうしようもなかった。さんざん考えたあげく、二子玉川に“鶴友達”の雅子が住んでいることを思い出した。彼女はそこで公務員の夫と平凡だけども仲良く暮らしていた。
〈そうだ、雅子に助けてもらおう〉と思った。
雅子とは長らく会っていない。顔も見たいし、とにかく誰かに私の話を聞いてもらいたかった。私は全速で二子玉川を目指して飛んだ。
つづく
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