もしツル Scene 3



 夜が明けた。昨夜はほとんど眠れなかった。やよいの本当の姿を見たという衝撃は、さまざまな感情となって僕の心を駆け巡った。

嫌悪感、おぞましさ、怒り、後悔と喪失感、期待感、理不尽さ、割り切れなさ……。

 それらの思いが頭のなかをクルクル回るだけで、この状況をどう受け止めればいいのか分からないまま、時間が過ぎた。

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 いま鶴は、リビングの床に座り込んで、だらしなく黄味が流れ出しているハムエッグを見つめている。それは少しも美味しくなかった。昨日までは、やよいが作ってくれていた。彼女が作ってくれたハムエッグは、黄味の中まで火が通った僕好みの味だったのに……。
 一羽の鶴と向かい合ってする食事は味気なくそして情けなかった。気持ちを落ち着けて冷静になる必要があった。
 テレビのワイドナショーをぼんやり見ながら、昨夜ベッドの中で考えていたことを整理してみようと思っていると、ゲスト出演していた片岡鶴太郎のアップが目に飛び込んできた。笑うに笑えず、ハムエッグの残りを食べた。そして、一息ついてから僕は考えた。

何を嫌悪しているのか?――それは、見たくないものを見たという思いと腹立たしさ。                             何がおぞましいのか?――鶴と夜を共にしていたこと。
何に怒りを感じるのか?――鶴に、まんまと騙されたこと。
何を失ったのか?――大好きだった人間のやよい。
何を期待しているのか?――この出来事が夢であってほしいということ。
何が理不尽なのか?――あれほど愛しいたのに、やよいが鶴だったということ。
何が割り切れないのか?――やよいが人間でもあり鶴でもあるという現実。

 こうして整理してみると、自分の思考が支離滅裂に分裂していることに気がついた。僕は、人間のやよいと鶴のあいだを行ったり来たりしているだけだった。出口が見つからずウロウロしているだけだった。突き詰めると、鶴に対する嫌悪感と、やよいに対する愛しさという正反対の二つの感情に切り裂かれているのだった。
コーヒーを飲みながら、僕は鶴の様子をうかがってみた。昔話では、たしか【正体を見られたことを恥ずかしいと思って鶴が去っていく】という結末だったはずだけれど、リビングに座り込んだ鶴は、まったく動く気配がない。

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 〈あの昔話はやはり作り話だったのか……〉などと、馬鹿げたことを考えたりもした。
 考えても結論が出ない堂々巡りをした挙句、自分が「実は鶴と暮らしていたのだ」という信じられない現実について、妙に納得してしまった。でも実際問題として、彼女が鶴だとしたら、これからの生活はいったいどうなるのだろうか? 
 〈さすがに鶴とは一緒に暮らせない〉と思った。ではどうすればいいのか? 

後ろから捕まえて、池か川まで捨てに行くか?
鶴の保護団体に連絡して引き取ってもらうか?
それとも、このマンションで飼育するか?

 マンションで飼育するというのは、現実的な選択とは思えない。しかし、かといって昨日までやよいだった鶴を捨てに行くには忍びないし、保護団体に連絡すると問題がややこしくなるようで気が進まない。あれこれ考えても結論が出ない。僕は途方に暮れてため息をついた。
 ぐずぐずしているうちに、会社に行く時間になった。顔を洗って髭を剃り、紺のジャケットに白のチノパンツを穿いて玄関を開けようとした時、ふと思い立って、ベランダの窓を開けた。リビングには、相変わらず鶴が座っていた。ベランダから飛び立つ様子は見られなかった。僕はあきらめて、窓を開けたまま部屋を出た。


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 慎之介がいつものように出勤していった。昨日までは、玄関まで見送りに出たものだった。でも、今朝はできなかった。彼の後ろ姿をリビングから見送って一人、いや一羽になると、寂しさが込み上げて心細くなった。微かな風がベランダから入ってきて私の羽根を波立たせた。

〈私には帰る所がないのだ……。私も多くの仲間と同じように、近くの池で佇む流浪の鶴になるしかないのだろうか……〉




つづく

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