もしツル Scene 6


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 金曜日の夜に鶴と向かい合って食事をしたことがある人はいるだろうか? 僕は今、かつてやよいだったタンチョウと、ダイニングテーブルを挟み差し向えで赤ワインを飲んでいる。ワインの味が不味くなるわけでもないが、かといって美味しさが増すこともない。鶴は背筋を伸ばしたきれいな姿勢で立ったまま、赤ワインを飲んでいる僕をじっと見つめている。照明の光に照らされた頭頂の赤い色が何だかとても寂しく感じられた。

〈僕は、目の前にいるこの鳥を、これから何と呼べばいいのだろうか?〉 

 その赤い色を見ながら考えた。呼び方や名前など、どうでもいいと言えなくもない。でも、相手が何であれ、名づけることによって初めてその存在を認識できるのだと考えると、やはり名前は必要だと思った。いま僕が置かれている状況を、自分なりに整理して考えるためにも、それはぜひとも必要であるに違いない。そこで思いを巡らして、あれこれ考えてみたけれど、答えはひとつしかなかった。

<やよい>

 たとえ今は鶴であったとしても、目の前にいるのは僕にとってやよい以外の何者でもなかった。ここは開き直るしかない。そう思うと少し楽になった。僕は何とか落ち着きを取り戻して、

『やよい、僕の言葉が分かるかな?』

と話しかけてみた。すると彼女は羽根を大きく広げて、それをまたゆっくりと元に戻した。その動作を見た時、彼女は僕の言葉を理解しているのに違いないと思った。しかし、おそらく、もう人間の言葉を話すことはできないのだろう。人間としての会話が断ち切られてしまい、僕は彼女の仕草でもって、その気持ちを推し量るしかないのだ。
 ため息をついてもう一杯グラスにワインを注ぎ、テレビのリモコンをオンにした。ちょうどニュース番組が始まったところで、男性のニュースキャスターが今日一日の出来事を紹介しているところだった。政治や経済のニュースに続いて映し出されたのは、空を飛ぶ一羽の鶴だった。

 《今日の午後、明治神宮の上空に一羽の鶴が現れて、神宮の森の中に降り立ちました》と、もう一人のニュースキャスターである女性が言った。画面の中を飛んでいるその鶴を見て、これはやよいに違いないと思った。僕は今朝、彼女が去って行くことを半ば期待してベランダの窓を開けたままにしておいた。やはり、いったんはこのマンションから飛び立っていたのだ。
 《なにか良いことが起きる前兆かもしれないぞ》と、ゲストコメンテーターの評論家が半ば真面目、半ば冗談といった口調で答えているのを聞いてため息が出た。

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 鶴と向かい合って食事をした経験が一度でもあったら、こんな気楽な言葉は口から出てこないに違いない。不愉快だった。でも、考えてみれば、鶴と食事をした経験がない方が当たり前だから、この評論家に文句をいう筋合いはない。
 僕は、誰にもどこにもぶつけることができない複雑な感情を抱えながら、

〈どうしてやよいは戻って来たのだろう?〉

と考えてみた。それに対するはっきりとした答えは見つからなかったけれど、彼女が戻って来たことには重要な意味があり、この先に何か大きな出来事が待ち受けていのではないか、という思いが過った。それは漠然とした予感みたいなもので、何が起こるのかまったく見当もつかなかった。でも、その予測がつかない何かによって、僕とやよいの関係が大きく変化するような気がした。この考えは、僕を少なからず動揺させた。そしてこうつぶやいた。

『何が起こるのか分からないけれど、何かが起きるまで待つしかない』

 それが僕にできる唯一の行動なのだ。そして、とにかく待っている間に「鶴女房」についてできるだけ多くのことを調べてみようと思った。きっとその昔話のなかに、僕に降りかかってきた問題を解決するための糸口があるに違いない。いま必要なことは、粘り強く待つことだと思った。

『焦ってはいけない』

と、目の前に立っているやよいを見ながら、僕は自分にそう言い聞かせた。



結衣さん絵

 テレビニュースに映っているのは、間違いなく私だった。こうして自分が飛んでいる姿を見るのは初めてだった。自分の姿を見るのは気恥ずかしかったけれど、思いのほか優雅に翼を打ち振ってゆっくり飛んでいる自分をみてちょっと嬉しかった。
 今朝、このマンションから飛び立った時、私はもうここへは帰ってこないつもりだった。でも私は帰って来た。行き場がなくなり、絶望しながらも、心の中に芽生えた小さな「意志」だけを頼りにして帰って来た。

〈自分の居場所は慎之介がいるマンションしかない〉

 私ははっきりそう思い、そしてこの部屋に戻ってきた。悲しいのは、もはやこの気持ちを慎之介に伝えるすべがないことだった。ただ、「去って行かない」こと、それだけが、私にできる唯一の意思表示だった。
 マンションに帰ってきた慎之介は、私を見てかなり驚いた様子だった。私がもうどこかに飛んでいてしまったと思っていたのだろう。彼は密かにそれを期待していたに違いない。そう思うと、やるせない気持ちに襲われた。
 私が去っていかないことで、慎之介は何を感じてくれるのだろうか? 彼はそれを受け入れられるのだろうか……。それは賭けのようなものだった。不安と期待が入り交じり、私は小さく、ひと声鳴いた。その鳴き声を聞いて慎之介が私を見た。その目には、揺れている彼の心が見え隠れしていた。

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つづく


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