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師が教えるのではない、弟子が学ぶのだ
なにかを「教える」ことはできるのか?
「『教える』なんてことは、そもそも不可能だ」極論に聞こえるかも知れませんが、私はそう考えています。
先生がどんなに良い授業しても、生徒が寝ていたら何も学ぶことはできません。なにかを『学ぶ』というのはどこまでも「受け手次第」なのです。
中国の古典にそれを示す面白い話があります。黄石公(こうせきこう)と張良(ちょうりょう)という師と弟子の話です。
ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)を落とす。「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する。
師はクツを落とし、弟子はそれをひろって履かせる。それだけのことから、弟子はなんと「兵法奥義」を会得してしまいます。いったいどういうことでしょうか。
兵法奥義とは、「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向って問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。(内田樹『日本辺境論 (新潮新書)』より)
ここで弟子が学んだのは「何か良いこと」という内容ではなく「どう『学ぶ』か」という構えなのでした。
凄いのはあくまでも「学んだ弟子」です。この話の師は、何も考えていなかった可能性すらあります。そして師の内面が実際はどうであるかも実は、弟子の学びとは関係ないのではないでしょうか。
師が教えるのではなく、弟子が自ら学ぶのです。構造上は、どんな師からも学べることになるのです。
では「教える」側にできることは何なのか?
では教える側にできることはないのでしょうか?
19世紀イギリスの教育者ウィリアム・アーサー・ワードはこう言っています。
凡庸な教師は、しゃべる
良い教師は、説明する
優れた教師は、示す
偉大な教師は、ハートに火をつける
受け手に学ぶ意欲がなければ「教える」ことはできません。偉大な師とはその「意欲」を掻き立てる人なのでしょう。
しかし「ハートに火が灯る」かどうかも、実は弟子次第であり、師が起こせるものではありません。むしろ意図が見えると相手は引いてしまうかも知れません。「私は人に教えることが得意だ」と思っている人は、たいてい教えることに向いていないように見えます。少なくとも不自然な押し付けになっていないか、客観視する努力はした方が良いと思います。
師こそが学ぶべき
師にできることは、自らも学び前進する姿を見せること、それだけなのではないでしょうか。
そこから何かを学べるかどうかは弟子次第である、というある種の達観がなければ、学びの構図は起きにくいように思います。
自ら何かを学び、前に進んでいる師の姿勢こそ、弟子が学ぶ価値のあるものだからです。
それでも教える意味
何かを教えよう、伝えようと思ったときに人は最も学びます。それが相手に届くか届かないかに関係なく。
自分の理解と不理解を他者に伝えようと言葉に形にする過程で、必ず大きな学びがあります。相手のためではなく自分のために、教え続けることには大きな意味があります。
師弟「関係」には大きな価値がある
心理学者の河合隼雄は師であるユングとの関係をこう説明しています。
自分の独善性や安易さを防ぐため、自分の信じる方法や考えを全面的にぶっつけて検証する相手として、C・G・ユングを選び、そのことに積極的意義を見出す
師が存在し、それに自分を照らして、学び続けることは、本当に豊かなことです。師と弟子という構図自体に価値があります。
十牛図は禅の悟りのプロセスを示したと言われている10枚の連続した絵で、いわば悟りに向かう10コマ漫画です。この図は、その10枚目「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」。悟りの最終形も師と弟子の構図なのです。
(十牛図はとても面白いので、少し解説しています↓)
田坂広志『仕事の報酬とは何か』では、能力を身に付けるために一番必要なのは師匠を見つけることだと言っています。
師匠とは、与えられるものではない。
自身が、自ら見つけ出すもの。
自身の心が、本当に謙虚であるならば、周りに「師匠」と、仰ぐべき人物は、必ず、いる。
最後にルイ・アラゴンの言葉を紹介して終わります。
教えるとは希望を語ること
学ぶとは誠実を胸に刻むこと