【ジャーナル】こうち女性起業家応援プロジェクト連続セミナー #5 好きを仕事にする―日本の伝統産業を未来へ―
「こうち女性起業家応援プロジェクト」は、起業や育児休業後の職場復帰や再就職、移住後のキャリアチェンジ、そして、キャリアアップを目指す女性を幅広く支援するという想いから、各分野で活躍する起業家をゲストに迎えたセミナーや、生活目線から考える事業アイデアの創造に向けた学びの機会を提供し、高知の女性が自分事として取り組むことのできる新たなチャレンジを後押しすることを目指し、開催しております。
第5回目の講師は、矢島里佳さん(株式会社和える 代表取締役)。
『好きを仕事にする―日本の伝統産業を未来へ―』と題して、会社を立ち上げた背景や伝統工芸への想いなどを聞かせていただきました。
矢島 里佳さん (株式会社和える 代表取締役)
1988年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。職人と伝統の魅力に惹かれ、19歳の頃から全国を回り、大学時代に日本の伝統文化・産業の情報発信の仕事を始める。
大学4年時の2011年3月、「日本の伝統を次世代につなぐ」株式会社和えるを創業。
日本全国の職人と共にオリジナル商品を生み出す“0歳からの伝統ブランドaeru”を立ち上げ、東京・京都に事業拠点を立ち上げる。「ガイアの夜明け」(テレビ東京)にて特集される。その他、日本の伝統を暮らしの中で活かしながら次世代につなぐ様々な事業を展開。
2013年 世界経済フォーラム(ダボス会議)「World Economic Forum - Global Shapers Community」メンバーに選出。
2015年 第4回 日本政策投資銀行(DBJ)「女性新ビジネスプランコンペティション」にて、女性起業大賞受賞。
2017年 第2回 APEC「APEC BEST AWARD」にて、APEC best award大賞、Best social impact賞をダブル受賞。京都市文化芸術産業観光表彰「きらめき大賞」を受賞。
『和える』の由来
「先人の智慧と今を生きる私たちの感性を和えることで、普遍的な、本質的な日本を次の世代に伝えていきたい」という想いを社名にもロゴにも込めている、というお話から始まった、矢島さんのキーノート。
自身の会社を「和えるくん」と呼んでいるエピソードから始まりました。
法学部の大学生だった頃に受けた法律の授業で、人間以外に人格を有するのは法人格のみ、という話を聞き「創業者はお父さん、お母さんなんだ」と思った、と言います。
その当時、矢島さんは起業家になるつもりはありませんでしたが、株式会社の本来の意味は、ただお金を稼ぐために生まれたわけではなく、誰かの想いや願いから生まれたり、役に立ったりしながら次の世代へ繋いでいくことではないか、と感じたそうです。
いざ、22歳で創業するときに、社長ではなく『和えるくん』のお母さんになるんだ、と『和えるくん』が生まれました。
創業後は、日本の伝統を次の世代に伝えたい、と入社を希望する人たちも増加。
矢島さんの考える本当の意味での働く、とは「自分がその会社が生まれた理由に対して、本質的にアプローチして、何か社会の役に立つことで対価としてお金をもらう」こと。
会社に食べさせてもらう、という意識ではなく、伝統を次世代につなぐことをその人なりに考えて、会社を通して達成できる、という意識を持っている人が『和える』という会社に合っている、と話しました。
活きた伝統をつないでいく
『和えるくん』の「日本の伝統を次世代につなぐ」ということを一言で言うと、伝統文化を守る会のように聞こえますが、そういった考えは全く持っていません。
無くなるものは無くなれば良い、そうきっぱりと矢島さんは言います。
その背景には「自然の営みの中で、何かを守るというよりも、時代時代の変化に対応しながら、活かすという発想でないと、本当の意味でつなぐことは難しい」という考えを持っているからです。
何でもかんでも守ろうとしているわけではなく、役割を終えたものは博物館に大事に収蔵し、歴史があったことを語り継ぐことが大切で、今の時代の人たちの生きる営みの中に役に立つ、「活きた伝統」をつないでいく必要がある、と続けました。
過去から振り返っていくと、日本の伝統というものを人生のはじまりのときから知らない、選択肢として持っていない日本人が、近現代の急激な変化によって、激増しました。
矢島さんは、もう一回、自分たちが日本の伝統に出会ったうえで、役に立たないで終えていくなら良い、と思っていましたが、実際に自分自身が出会ったとき「何で私、日本人なのに知らなかったんだろう」と魅力を感じたのです。
東京生まれ、千葉のベットタウンで育った矢島さんは、両親も伝統文化についてほとんど知らない世代、つまり知らない世代の連鎖が始まっている世代。
核家族で、祖父母に会うのも年に二回ほど。同じような世代の人たちが、横のつながりで生きている街に暮らしていました。
日本を生み出している人に会いに行きたい
中学高校時代に茶華道部に入部。ほぼ初めて、『日本』というものを意識し、実際に体感した最初の出来事になりました。
実は「生まれてから15年くらいは、日本人なのに日本人に憧れるという感覚で生きていた」と矢島さん。
部活動を選んだ理由も「日本っぽいからやってみよう」という動機から。外国の人が抹茶を飲んで着物を着たい、という心理と一緒でした。
大学時代に会社を立ち上げたことを言うと、幼少期から伝統に親しんでいた、と言われることが多いそうですが、それは真逆で、当たり前でなかったからこそその価値に気付けた、と話します。
10代の後半、ジャーナリストを目指していた矢島さんは、「もしかしたら私みたいに、ただただ人生の営みの中で、出会えていないだけの人って、もっといっぱいいるのではないか」そう思いました。
大学進学後、まず日本を生み出している人に会いに行きたい、と思うようになり企画書を書いて、運よくJTBの雑誌で連載させてもらうことになりました。
偶然、JTBさんに企画書を渡してくださった方がおり「会報誌を出すタイミングだから」と1ページ書かせてもらえることに。大学の3年間、その雑誌で連載をさせてもらい、沢山の職人さんたちに会いに行くことになりました。
選ばなかったのではなく、知らなかった
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