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あなたは一体だれ? ~自己紹介 Part 1~

2023年春クルーズ北回り(114回)
2013年秋クルーズ南回り(81回)
ピースボートクルーズに乗船しました。
世界一周「船旅の準備」「自由行動のヒント」と
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この記事の動画 ↓

こんにちは!クルーズ船チャンネル Sallyです
新年初企画 あなたは一体だれ?

チャンネル登録者も2,500名を目前に約1年8ヶ月クルーズ船チャンネルを続けてきたわけですが、一度も自己紹介してなかったなぁと。
10月下旬に出した「ピースボートの嫌なところ」の前にこの自己紹介動画を出す予定でしたが前後してすみません。あの動画にも賛否両論あり、やはり私の素性が分からない方からはちょっと厳し目のコメントも入りました。でもこの自己紹介を見ていただいたらもうちょっと説得力があるかもしれません。
特に、海外生活で体験した日本ではなかなか知ることのできない内容も含まれています。日本に対する海外の人たちの捉え方などに興味がある人は面白く見ていただけるのではないかと思います。


1 カナダで受けた、台湾人女生徒からの人生初の衝撃

私の本業は日本語教師です。1994年からですのでかれこれ30年になります。北米、南米、中東、東南アジアで合計7年余り、国内でも多数の多国籍の学生に日本語を教えてきました。

1994年当時のカナダはデジタルカメラもなかったころ。ちょうどカナダ滞在中に阪神・淡路大震災が起こり死亡名簿のカタカナ名に友人の名前を見つけ凍りついたことがありました。同姓同名の別人でしたが、当時はWindows95が出たばかりで私は当然そんなもの使えませんから、国際電話かFaxか郵便。それはそれはもどかしかったことを覚えています。

当時のカナダの様子をお話します。バンクーバーにあった民間の日本語学校、そのエリアでは歴史のあるその学校で経験を積んだご夫婦がその後二人で立ち上げた日本語学校、2年目か3年目ぐらいだったかと思います。

香港返還の少し前で、日本語学習者は香港人それから台湾人、日系人、それとカナダ人いわゆる白人の半々ぐらいだったかと思います。
私が担当した学生の中に台湾から移民として来た高校生の女の子がいました。彼女がとても印象的で今でも忘れられません。

彼女が嬉しそうに話したこと、それは、、、


台湾のおばあちゃんは日本語が話せて日本が大好きだった、

自分の家に池まで作っていた、
そんなおばあちゃんを見て育ったので

いつか日本語を学んでみようと思っていた、

と。

それを聞いた私は、彼女がなぜ嬉しそうに話しているのか全く理解できなかった。
なぜだか分かりますか?

当時の私は、日本が大嫌いでした。自分が日本人であることがとても嫌でたまらなかった。理由などわからない。20代前半、ただ生きることに精一杯、政治や社会に関心がないただの若者でしたが、後になって分かったことは従軍慰安婦問題に対する有名な「河野談話」が発表されたのが1993年。そこから大きくこの問題が取り立たされるようになった時代でした。

私はその日本を覆う嫌な空気を敏感に感じ取り、翌1994年、とにかく日本から離れるためカナダに渡ったのでした。
完全に自虐史観の真ん中に立たされていました。
今では本当に考えられないことです。

そんな私が台湾人の女生徒から、おばあちゃんの話を聞いたとき、ただ唖然とするばかり。私は日本のことを、日本の歴史をその時何も知らなかった。現在では日本も自虐史観から脱し、日本とアジアの関係を理解する人も増えてきました。私も日本語教師としての経験をある程度積んでから、日本の近現代史について学び、当時の彼女が本当に心から日本語学習を楽しみにあの学校で学んでいたことを心底理解できるようになりました。
あの時もっと彼女のことを理解していたら、、、と悔やまれます。


2  辛いことほど笑って話す南米の日系一世たち

20代、30代とにかく一人前の日本語教師になるため人生を駆け抜けました。勉強と実践の日々。日本では関西の複数の日本語学校でたくさんのクラスを受け持ち、一日3時間睡眠という日々が続きました。

そして数年後にJICAという日本政府からの派遣で南米で日本語教師をする試験に合格し、アルゼンチンに赴きました。
そしてそこにも私が知らない日系人という歴史がありました

半数以上の日系移民が沖縄出身でした。そこでたくさんの一世のご老人から戦争前後の沖縄やパラオの話、ペルーやブラジル、パラグアイに移住し、そこから命がけで国境を超えアルゼンチンに落ち着いた話、どれも息を呑むような、涙をこらえるような話でした。
しかしそんな体験にも関わらず、ご老人たちはそれを笑いながら話すのです。聞いている私は圧倒されるばかり。ご老人たちは常々子や孫たちにこういう話をし、自分の体験を伝えていて、面白おかしく話すようになったんだろうな、と思います。そうでないと辛くて生きていけません。


自筆の自伝も読ませていただきました。コピーを取っておけばよかった。
あれから四半世紀、もうそのご老人たちもほとんどは亡くなってしまい、
二世、三世の子孫たちが心に仕舞っている、ただそれだけということになってしまいました。
私が学者ならなんとか記録を残したいところですが、残念です。
(日系団体で記録を残す活動も当時からしているので資料は残っています)



私が赴任した2001年、また象徴的な事件が起こりました。911アメリカツインタワー爆破事件です。私はいつもこういう大きい災害のとき日本にいないのです。不思議です。



日系一世のご老人は当然日本語が母語で私とも日本語で会話ができましたが、二世はギリギリ、三世になるとスペイン語が優勢になります。どうしても現地に溶け込んでいくことは仕方がないことです。

当時、私が努めていた日系人会が開放している日本語学校に学びに来る
8割は白人のアルゼンチン人でした。アニメや異文化に憧れる彼らは楽しみながら熱心に学んでいました。
片や、日本人会館に週末顔を出す二世、三世の若者たち
彼らの日本語はカタコト。聞くのはできるがあまり話せない。
ある時,彼らの一人に聞いたのです。


日本語は?
・・・ 子供の時は土曜日の小学生クラスに毎週来ていた。

でも大きくなって行かなくなった。祖父母と話すだけ、、、
 
日本語もう勉強したくない?
・・・ したいけど、、、恥ずかしい。


私はそうか。なるほど!すぐその理由が分かりました。

この恥ずかしい、の意味わかりますか?

私は早速、「日系人だけの日本語クラス」を作りました。

そう。彼らは自分より上手に話す日本にルーツのないアルゼンチン人たちと一緒に勉強するのは恥ずかしくて、日本語学習を途中で諦めざるを得なかったんです。それを言語化できなかったんです。
ここにも日本にルーツのある彼らが生きていて、日本語と切っても切れない関係が息づいていました。

3 中東で、世界のマス「ゴミ」に気づいた

まだまだ日本語教師「道」を突っ走っていた私でしたが、次のJICA派遣国 中東シリアでは少し落ち着いていました。ある程度、経験も積み少し周囲を見る余裕が出てきた感じでした。

シリアでは国内の人々の暮らしや、遺跡観光も楽しみながら少しペースダウンして海外生活を送りました。

 

とはいえ日本とは真反対の文化圏。さまざまストレスや理解できない異文化体験もしました。
シリアは歴史ある国。人々も誇り高く生きています。
その彼らとどのように折り合いをつけていくか

それは生活者ならではの課題でした。

そういう経験をこの派遣、青年海外協力隊で体験することができました。これは若い日本人にとっては大変大きな経験になります。私は派遣年齢ギリギリの39歳でしたが、中東の歴史あるシリアという素晴らしい国で2年間過ごすことができ、大変幸運だったと思います。

滞在中、レバノン戦争や大小様々な事件があり、そこで気がついたことは
マスコミ報道のおかしさでした。
現地が大変な状態であるレバノン戦争はほとんど日本で報道されることはなく軽いドンパチで実弾だったのかも分からないようなアメリカ大使館襲撃事件は戦争が起こったかのような報道のしよう。
日本の友人からの安否の知らせに「えぇ?何かあったの?」と逆に聞き返した程でした。

帰国5年後にシリア内戦が始まり、私の元学生がアラビア語から日本語へのニュースの翻訳を一時期していたことがありました。しかし彼の翻訳は全く逆にされ、日本に垂れ流しされ続けました。
彼はそれに絶望し、翻訳の仕事を辞めてしまいました。その翻訳とは、


彼の翻訳:「反」政府組織が住民を殺戮している

報道  :アサド大統領率いる「政府軍」が住民を殺戮している


こうして、アサド大統領は「悪」、反政府勢力は「善」と世界に流布され、ヨーロッパに逃れたシリア難民たちの一部が西洋諸国の支援を受け、「アサド悪」のニセドキュメンタリー映画を作り、日本でも称賛されるという酷い有り様になりました。
シリアでマスコミの本当の姿を見た私は、以降一切マスコミを信じることはなくなりました。

 

シリアの日本語教育について話します。
シリアで日本語を学ぶところは3箇所だけ。1つは首都の大学の日本語学科、そして私が所属するその大学の言語センター。こちらは大学生でなくても入学できます。それから第2の都市のアレッポ大学の言語センター
アレッポはオリーブ石鹸で有名。シリア内戦でも大変被害を受けた都市の一つです。大学の語学センターの日本語クラスは高校生からシニアまで様々でしたが、皆ほとんどは英語が分かり、他のヨーロッパの言語を趣味で学ぶ人は大変多く、いくつもコースがありました。

 

日本語を学びにくる学生はこのセンターのアジア唯一の言語である日本語に興味がある一方で、日本についてもシリアの教育である程度しっかり勉強していました。彼らの口からの第一声は「広島、長崎、戦後の復興」そして、自分たちシリアも長い間ヨーロッパにいじめられてきた。そこから復興するために日本は一番の手本なのだと。彼らは日本の事をよく理解し、好意的に受け入れていました。
それに引き換え日本人の私達が、中東を、シリアのことをどれほど知っているでしょうか?

ところでアラビア語は方言差が大きく、シリアとエジプトでもかなり違います。シリアで話されているアラビア語は標準アラビア語、つまりコーランに最も近いので、エジプトカイロよりもシリアに留学する学生が多く、日本語スピーチコンテストの時には、彼らに学生のスピーチの練習を随分みてもらい、助かりました。素晴らしいスピーチの数々でしたので、機会があれば皆さんにもご紹介したいですね。

 

第1部はこれでおわります

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