車椅子の旦那との生活から考える、“障害”とは?
こんにちは。
車椅子の夫と5歳の息子と暮らす主婦、こぶたです。
旦那が車椅子ユーザーだと知ると大抵の人が
「大変ね」「偉いわね」
と言います。
車椅子の障害者と結婚することは
偉いことなのでしょうか?
そういう人は大抵、車椅子ユーザーの生活実態を知りません。
私が彼を介護しているというのが
大抵の人が想像していることなのかもしれません。
では、実際はどうなのでしょう?
旦那の生活
旦那は障害者雇用ではありますが
ふつーの会社の、ふつーの会社員です。
彼の生活はこうです。
朝5時半、
排泄障害があるため、長い時間トイレに籠り
その後は感染予防のためにシャワーを浴びます。
息子はおねしょをした朝、
パパとシャワーを浴びたりお風呂に入ります。
トイレもお風呂も
旦那が使えるように整えられた場所であれば
1人で生活が可能です。
ベッドで着替え、
ヤバイヤバイと言いながらパンをかじり、
支度しなさいと叱られる息子にフォローを入れて
車で出勤していきます。
車も足が動かない人のために作られた
手で運転できる装置を取り付けられています。
これは普通の車に後付けしたもので
押せばブレーキ、引けばアクセルという簡単な仕組みです。
“彼のための車”というわけではなく、
もちろん私が、一般的なやり方で運転をすることもできます。
夕方まで仕事をし、
たまには職場近くの実家に寄って
それから帰宅し
夕食を食べて息子を構い、
またトイレに籠り、お風呂に入って眠りにつきます。
何も特別なことは無い、
ごくありふれたサラリーマンの生活です。
たしかに他人より、生きるために必要な
所作や手間、かかるべき医療、使う体力などは
多少多くなるかもしれません。
ですがそれだけです。
電球をかえてくれることはありませんが
開かない瓶は開けてくれます。
運べないであろうと想像する大きな箱や買い物袋も
膝に乗せたり口にくわえて
運ぶことができます。
細かい作業は目が悪く、手先が不器用な私より得意で
息子の爪切りや細かいおもちゃの組み立て、
それに折り紙や棚の組み立てなどは旦那の仕事です。
草引きや庭仕事に大工仕事も
それなりに工夫して道具や人を使い、こなします。
後片付けは苦手ですが料理も得意な方です。
※これらは全て“うちの旦那の場合”であり、
車椅子ユーザーが皆同じか、
障害者が皆そうか、と言うとそれはまた別の話になります。
障害は幸不幸の問題ではない
障害があるということは
必ず人の手を借りなければならないわけではなく
その人に合った道具や環境を整えさえすれば
人の手を借りずとも
“自分で”完結させることが出来ます。
つまりは障害とは幸不幸の問題ではなく
“便利か不便か”の問題だろうと私は考えます。
その証拠に、
必要な道具と環境がなければ
途端に彼は自立した生活を失うのです。
障害とは環境とのミスマッチ
環境の整った自宅では自立する彼も
環境も道具もない私の実家へ泊まりに来ると
途端にその自立性を失います。
これは私の実家に行けば
彼の(身体的な)障害が増大したわけではないのです。
身体的な状況は何一つ変わりません。
変わったのは環境です。
それにより、結果(自立性失うという意味で)障害は増大したと言えるのですから
環境側に問題があるのは明確です。
利便性を欠いた場所に置かれることにより
彼はただの“車椅子に乗ってるだけのお父さん”から
“障害のあるお父さん”へと変化するのです。
もう一度言いますが
彼自身が変化した訳ではありません。
環境の整ったはずの自宅内に於いても
息子がおもちゃを散らかせば
途端にそれは彼の“障害”になるのです。
凍結した雪道で
革靴を履いた人はツルツル滑って1歩も進めず、
その横をアイゼンを着けた人達がサクサクと通り過ぎていく。
私は今、アイゼンをつけているから
どうぞ私に掴まって。
と、手を貸す人もいれば
こんなに雪が積もってるのに
革靴だなんてあいつは馬鹿だと笑いながら
通り過ぎる人もいます。
その人は革靴しか持っていないかもしれないし
サイズの合うアイゼンがなかっただけかもしれない。
もしかしたら盗まれてしまったのかもしれませんね。
ですが、そんなことは人からは見えません。
他人は革靴の彼を時に笑い、時に蔑みます。
Happyが1番
話が逸れてしまいましたが
旦那と生活する中で、彼を障害者だと認識する場面は
極めて少ないか、ほとんどないかのどちらかです。
彼が何も出来ない人ではないことを
十分に知っているからです。
足は動きませんが、家族をやる上で
それは大した問題ではありません。
(もちろん環境に問題があれば
足が動かないことは大きな問題となり得ますが。)
体とは、そもそも
自分で動くことの出来ない不自由な脳というものが
自由に動くために得た、乗り物なのでは無いでしょうか。
だとしたら体の自由そのものが、脳にとっての“環境因子”とは言えないか…?
空を飛ぶためのマシンが故障してしまい
この島から出られない…というのと似てる気がします。
私たちは壊れたマシンを直すことばかりに目が向きますが
問題はマシンが直ることなのでしょうか?
私ならこう考えます。
マシンが壊れて動かないなら
島から出られず困っている人を
私のマシンに乗せて島を出ればいいじゃない?
もしくは、島で暮らしていくことを考えたっていいのかもしれませんね。
それでHappyになれるなら
それでいいじゃない。
ソファで眠ってしまった子どもを
彼はベッドに運ぶことはできません。
どうすればいいでしょう?
答えは簡単です。
彼にも運べる毛布や布団を、
子どもに掛けてやればいいのです。
それだけです。
環境とのミスマッチは誰にでも起こりうること
もしも指を怪我したら
もしも財布を落としたら
もしも車がパンクしたら
もしも冷蔵庫が壊れたら
もしも今夜使う予定だったお肉が腐っていたら
もしも靴下に穴が空いたら
もしもトイレットペーパーを切らしたら……
簡単に人は利便性を失います。
途端に人は大小様々な環境とのミスマッチを起こすでしょう。
それはどんなに小さくともあなたにとっての“障害”となるでしょう。
誰もが日々、障害を感じて生きているのです。
ただそのスパンが長いか短いか、
大きいか小さいか、
直ぐに補えるかどうか。
ただそれだけの話です。
歩けないから障害なのか?
本当にそれが本質なのか?
私はこう考えました。
あなたはどう考えますか?
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