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毒親育ちで人生崩壊、不幸を生きてきた私が、“毒親”にさよならをした話


どうも、こぶたです。
車椅子ユーザーのパートナーの会を主催したり、発達障害を持つママたちの会を主催したり、たまに絵本冊子を作ったりしています。

車椅子ユーザーのパートナーであり、自身も多様なマイノリティの中に生きています。

そんな私の経験から得たものを、みなさまに少しだけお届けできれば幸いです。

本日は私が毒親にサヨナラした話をしようかと思います。

はじめに言っておかなければならないのは、これはあくまでも我が家の場合。いや、私と母においてのみこうだったという話です。毒親とのサヨナラの仕方も感じ方も、距離感も、その家族ごと、その人ごとに違っていて当然であると思っています。同じ環境に生きてきたとしても、人の数だけ正解があります。また、その時々でそれは変わっていくことでしょう。
ですから、同じことをしても関係が良くなるとは限らないし、関係が良くないことは悪いことでは無いと思っています。多様なあり方、多様な選択があっていい。だけど傷つく人はできるだけ少ない方がいいなと思ってはいます。

断捨離における人生の管理に関するYouTubeを見ていて、ふと思い立ち
部屋の本を処分することにしました。情報が古かったり、昔は助けられたけど今の私にはもう必要ない本たちです。

さよなら過去の自分!と手を振る気持ちになったのは、
やりたいことがたくさんあるのに、人生の時間があまりにも短すぎると感じるようになったからでした。

40代、不健康。
子どもも10歳と2歳でまだまだ幼いです。
過去の自分に振り回され、向き合って歩みを止めていられる時間はもうありません。

手は2本しかありません。
持ちきれないものはもう、捨てる以外の選択肢はありませんでした。

よく2歳の次男が大量のおもちゃを抱えて歩き回るのですが、小さな手には持ちきれないほど抱え込み、ポロポロ落としては泣き、
「ママもってぇぇ」
「いやいや、荷物が多いから持てる数に減らしなさい。よく見て、お手ては2本よ。」
そんな会話をするんですが、私もいまだに自分が持てる限界が分からず、欲張っては反省し手放しての繰り返しで「ちょうどいい」を探しています。

バイバイと、もう必要が無くなった毒親関連の本たちに手を振り、たまたま譲って欲しいと仰ってくださった方の元へ、本日旅立って行きました。
さよなら本たち。その方に寄り添い、少しだけ押し上げてくれますように。

以前もお話したように、私は宗教2世でした。

信仰を拒否すると悪魔と罵られ平手で打たれ、男の子と仲良くすると淫乱娘と罵られました。地域の子ども会の集まりも神社が絡むと参加禁止、弔辞の際も手を合わせることやお焼香まで禁止。初詣もお宮参りも七五三もおみくじもお守りも、みなが楽しむイベントとしてのクリスマスも、経験したことはありません。
友だちの親や先生にまで良かれと思って宗教勧誘をするため、
「こぶたちゃんとは遊ぶなって親に言われたわ」
と仲良しの友人から言われたこともありました。
いつも心の主軸に神を置けと育てられました。自分が決定権を持つな、常に神に決断を委ねろと。そうして私の心の主軸は神、大黒柱に神を据えて私の人格は形成されていきました。

宗教にサヨナラと手を振った時、大黒柱を失った私はグラグラになりました。
ですが、仮の柱を据え置き生きていくしかありませんでした。今も時折、嵐や雨で雨漏りしたり崩れかかるのを家族や友人に修繕してもらったり、温めてもらったりしながら生きています。

自信がなかった母

私もそうですが母も自分に自信がありませんでした。
失敗は許されない、いい人だと見られたい性格で不安が強いのでしょう。卑屈です。
それは母自身の生育環境によるもので、未だに彼女はそれを引き摺っています。

母はことある事に私に言いました。
「お母さんに似たからあんたは不細工なんや」
「お母さんに似たからそんな性格なんや」
自分を下げると同時に私を下げていることには気づいていなかったのかも知れません。

そしてそれはまた、祖母の生育環境から来ているのだろうなと
祖母と話していて感じました。気が強い祖母は逆境に何クソと立ち向かったけれど、そうでは無い母は弁え、諦め、漂う道を選んだのだろうと思っています。

現在70代の母は、103歳の祖母に
「お母ちゃんにはかないません。私はお母ちゃんみたいに強くないから。」
と言っています。

そして元々社交的だった彼女と、人と関わるのが好きでは無い父との摩擦や
引越しにより仲良しのママ友たちとの別れもあり、彼女の救いは宗教だけだったのかも知れません。

社会環境

私が育った20年は1980年代後半から2000年代の初めです。
宮崎勤の連続幼女誘拐事件をはじめ、数々の大きな事件や誘拐事件が多発し、昔話には聞くもののこれでに経験したことがなかった大震災(阪神淡路大震災)、オウム事件、アルカイダ、9.11など世間を騒がした時代でした。

近所でも泥棒が入り、逃亡する泥棒をご近所総出で追い、そのうちの1人が怪我をする事件が起きたり、中学生が荒れ、事件を起こしたりバイクで走り回り、自宅敷地内に中学生が侵入する事件、私の友だちのお兄さんが亡くなる事故や、幼稚園児だった私が中学生にエアガンで打たれるという今なら警察沙汰になるようなことも身近で起こっていました。
母は不安に駆られながら育児をしたようでした。

親の置かれた環境

当時そうした家庭が多かったように、父はサラリーマンで育児にノータッチ。母のワンオペで家庭は成り立っていました。

幼い頃は周りにママ友がいて、お互い預けあったり一緒に遊んだり、夕飯を持ち寄って会食したりしていた社交的な母でしたが
引っ越した先ではなかなか友人関係も築けず、宗教により固着して行ったのでは無いかと思います。
頼みの綱の夫婦関係もあまり良くはなく、祖父母や親戚との諍いも絶えませんでした。
男尊女卑思想も強く、女を産んだ母は嫁失格の烙印を押されていました。
もしも私が男に生まれていたら、何か違っていたのでしょうか?おそらく、事態はもっと悪くなっていたのではないかなと思います。

祖父と私

父方の祖父と私の関係は、私と父母との関係に大きく影響することになりました。

両親は父方の祖父母と険悪でした。
母方の祖父母宅に行くには父方の祖父宅の前を通過するのですが、父方の祖父の家に行くことはほとんどなく、
行っても宗教の話で言い合いをしたり、大人たちはすごい剣幕で、始終緊張した空気が走り、
よく子どもは車で待つように言われました。
そんなでしたから私が祖父と会話をすることはほとんどありませんでした。
話しかけてはいけない、とても話しかけられる雰囲気ではありませんでした。

それでも祖父はダンボールに投げ込むように畑からとってきた芋や、
裏山で採ったしいたけを渡してくれました。

ですが、ごく稀に父に連れられて2人で行く祖父宅は
少し空気が違っていて、会話はほとんどないものの
父も幾分かリラックスし静寂の中に穏やかさがあるように感じました。

「お前はお年玉の額が多いからおじいちゃんが好きなんやろ」
と兄弟に言われたこともありましたが、
私はもっと祖父と話がしたかったのでした。
色んな体験を共有したり、様々なことを教われる関係だったらよかったのにと。

それが叶わぬまま、祖父は68歳で他界しました。

火葬に行きたかった私は、どうしてもみんなとバスに乗りたいと駄々を捏ねましたが
母に強く反対され、叶いませんでした。
祖父宅に残る親戚たちや近所の方の噂話の隅でしゃがみこみ、古い竈のあとを眺めたり、
柱の傷やカレンダーの丸を数えて待ちました。

あとで親戚の誰かからこう聞きました。
「頭蓋骨の中が真っ赤やった。出血がやっぱり骨にも残るんやな。」
私は祖父を拾えなかった。連れて帰ることはできなかった。根こそぎ拾うことができなかった。この後悔がずっと、30年以上経った今もずっと私のどこか奥の方に蹲っている気がします。

だから私はどんな親との関係でも、孫と祖父母の関係性に自分の私情を挟む必要は無いなと思っていました。もしも子どもたちに有害だと判断した時や子どもから拒否する場合にはその限りでは無いけれど、あくまでも彼らの関係性に私と親の関係は全く関係なく、私の私情で子どもたちから祖父母を奪うことはしないと決めたのでした。


期待しないキャンペーン

親としての理想像を親に対してぶつけるのは辞めました。今更言ってももう私を育てるという子育ては終わっているのですから。
母が私を育てた感想は「育て方を間違った。失敗した。」でした。
だから私は失敗作で駄作の人間。

常にそう思ってきましたが、
子育てしてみて思うのは「あの対応は間違えたな」「あそこはもっと寄り添うべきだった、突き放すべきだった」という反省はたくさん思い浮かびます。
今になっても「あの時の対応が正解だったか分からない」と思うことも、「こうしてあげたかったけれど環境が許さなかった」ということもたくさんあります。
だから私は親に親らしさを期待しないことにしました。

そしたら私も親の求めるように生きれなくてもまぁいいかと
期待されても無理なら交わし、断ればいいと思うようになりました。

きっと私と母とはおそらく強固な結合をし、お互いの性質を抑制し合う物質同士だったのでしょう。だから近づきすぎない絶妙な距離感を取る必要があったのかもしれません。

距離にして約600キロ。
それが私と親の期待し合わない適切な関係でした。

私が思い描く親子を捨て去り、ちょっと親密な知人位の位置で関わるようになると、途端に景色は変わり「なんでしてくれないの?」から「あら、あれもこれもありがとう。いつもすみません。」に変わっていきました。

あまりに不器用すぎた歪な愛情

母は人の不機嫌を極端にいやがり、嫌います。相手の顔色を伺い、行動を決めていきます。70を過ぎた今もそうです。

そしてそんな母に育てられた私も母の顔を伺う、周りの顔色を伺う少女でした。

父が不機嫌にならぬよう、先回り先回りの献身的な世話をする母です。私たち子どもが泣き出したり不機嫌にするのもきっと苦手だったに違いありません。癪の強い私は、きっとたくさん泣き叫び駄々をこねたことでしょう。

「鉄砲玉のよう」と言われるほど衝動的な私の命を守り抜くのは一苦労だったことでしょう。

私を雁字搦めに自分の管理できる幅の愛情の鎖で、自分が思う幸せの形に合わさなければ手のひらからすり抜けそうで怖かったのだろうと、
あれはあくまでも母なりの、不器用すぎた愛情の形だったのだろうと今なら1歩引いて見ることができます。


私だったからこうなった

長男が5歳の頃、元素に魅せられていました。分厚い本をめくりながら彼はこう言いました。
「人も元素なんだよ。元素でできてる。地球上の元素の数は変わらないの。死んだらまた元素に戻ってその元素がまた何かに使われるんだ。」

そう言われると、なぁんだ!人間なんてただの容れ物に過ぎないのか。と、肩の荷がおりた気がしたのでした。

私たちは物質に過ぎないのだから、ひととひととが化学反応を起こすのも当たり前の事じゃないか。私と母という毒性の強い劇物同士が強固に結びつきあってしまったから、私たちは互いに火花を散らす燃焼反応を見せてきた。毒性の強いガスを発してきた。
それだけの事だったんです。

つまり、全てを母のせいにしてきたけれど、私もまた劇物だったからこういう化学反応になってしまったけれども、子どもの性質が違えば母は毒にも薬にも変化したかもしれないのだなと思うに至ったのでした。

すべては私だったから。

答え合わせを共にする終活

親の終活をし始めたのは、私が体力の衰えを感じたからでした。
夫は車椅子ユーザーでバリアフリーではない私の実家で片付けの手伝いは難しいでしょう。兄弟とは疎遠でおそらく共に親の先をしまうことは不可能な関係性です。
そんな中で親も老い、様々な健康上のトラブルに見舞われるようになりました。そして自分も40代を過ぎ、人生の時間の短さや自分の限界が見え始めてきたからです。

2階の荷物を下ろせるのは今だけだ。重い洋服ダンスも和簞笥も、使いもしない物たちも古い学習机も、今なら両親と片付けることができますが
5年後、10年後、親には無理でしょう。私がその時1人でできる気はしません。

まだまだ腰の重い両親。無理強いせず、まずは私の残した荷物から片付けはじめることにしたのでした。

小学校の教科書、高校の制服や通学カバン、昔描いた膨大な量の絵、作文、生徒手帳、短大の教科書、大学の資料などなど、たくさんの山のような荷物と対峙するのは果てしない作業でしたが懐かしいそれらを見ながら、私の知らなかった真実や母の反省、当時の環境的要因などが父母それぞれの口から語られたのでした。

それは時に私の記憶を補填し、謎だったことの辻褄が合う瞬間でもあり、
時に可哀想な小さな自分が悲しみに暮れる時間でもありました。

親の反省を耳にするたび、可哀想な小さな自分が成仏していくのですが、
もう私の人生は帰ってこないんだよ…と少し悲しくもなるのでした。

と同時に今は小さな時と違い泣くことなく冷静に、直接親に自分の意見を伝えることができました。

それはもちろん、子どもとしての立場のみならず
同じ親の立場からも私が物事を考えれるようになったからかもしれません。

私の私物を片付けるという作業は、
親も私も、私という人間を育てる/育てられるというひとつの育児に対して
それぞれの視点から意見を擦り合わせ、互いに反省し、家族をやってきた時間の振り返りする機会となりました。


同じひとつの“育児”を見ても、子ども側のロジックと大人側のロジックがまるで違っていることは子どもを持つ多くの方がご存知かと思います。

価値基準や世の中の当たり前という前提も時代により、まるで違っています。
それを現代の価値基準で評価することはフェアではありませんでした。

大人が見ていた社会的側面や生活を回すこと、生活を支えていくこと。そういうことを私は一切考えずにただただ親に対して
「こうしてほしかった」
「もっとこうだったら良かったのに」
「こんなこと言われて嫌だった」
そんな要望ばかりを投げて来れたのですから、十分に私は守られ、そして親に対してそうやって私は甘えできたのだろうという結論に、今のところは至っています。

恨める相手がいるのは
誰かのせいにできるのは幸せなこと。
あの時私は直接親に言えばよかった。それが言える子もいるはずなのに、私は自分で自分の環境を変えようとはしなかった。そしてそれを親の責任にだけして、長い間生きてきたのでした。

たった1枚の写真から進路も諦め、軟禁され、殴られ包丁を突きつけられ死ぬしか選択肢が思い浮かばなかった10代の終わりから20代。
私の人生がクソみたいだったのは、親のせい、宗教のせい、環境のせい、周りのせい、相手のせい。

だけど違っていました。
私がそれを受け入れてしまっていたから、受け入れてきてしまったからクソみたいな人生を送ることになったのです。

私はNOをいうことを知らなかったけれど、自分を大切にしていたらNOを提示することはできたはずです。

そう思うと親に期待することも恨む感情も薄らいでいきました。なぁんだ、私じゃん…。
でもまたきっと摩擦が起こるから近づきすぎず、離れすぎない、いやちょっと距離としては遠くを生きて行けばいいのです。

友人に会うために帰れる場の提供や、子どもたちに祖父母という存在や、文化や言葉の違う地環境を与えてくれることなど

親の有難み、お互いの有難みを多少感じる程度で当分は生きていけば良いのかなと、くっつきすぎたり離れすぎたりを繰り返し、やっと今適切な距離でバランスを保てるようになりました。

きっとまたこの先、さまざまな変化によりこのバランスは崩れるでしょう。その時私は一体何を思うでしょうね?そして最終的に、互いにどんな評価に落ち着くでしょうね?


このnoteは、
そっと誰かを岸に押し上げたいこぶたが人生の中で気づいたこと、感じたことを綴っています。

人生は終えるまでは続いていくから失敗してもきっと大丈夫。

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