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阪神淡路大震災の記憶
当時、私の住む地域は震度4~5だった。
関西とは言っても、かなり外れの田舎に住んでいたから
被害と言えば、物が落ちたとか物が動いたとか
そんな平和な場所にいた話なんて
なんの足しにもならないことは知っている。
だけど今日は
そんな私の阪神・淡路大震災の記憶を書こう。
1・17
あの日、自室で眠っていたら、大きな揺れと共に顔の上に貼ったばかりのカレンダーが落ちてきて飛び起きた。
お小遣いやお年玉をためて、買ったばかりのSMAPのカレンダー。
1月は中居くんの顔だった。
父は直ぐに私と兄弟の部屋に「大丈夫か?」と声をかけ
階下の居間に下り、テレビをつけた。
私も恐る恐る居間に下り、こたつでウトウトしながら朝を迎えた。
「神戸の方みたいやな。」
それを聞き、母は兵庫に住む祖父母に電話をかけた。
その電話がいつ繋がったかは覚えていない。
みな、無事だった。
神戸と聞いて、去年垂水区に引っ越して行った友人が頭に浮かんだ。
「よっちゃん、大丈夫やろか?」
私が呟くと、父は言った。
「わからん。」
震度1~3程度の地震は時々あったが
こんな揺れは初めてだった。
朝、学校に着くと
みんながこの出来事に驚いていた。
女の子たちは抱き合って、お互いの無事を喜んだ。
教室のいくつかの机と椅子は地震の揺れで大きく動き、
整えられていたはずが乱れていた。
それが地震の大きさを私たちにより強く実感させた。
まさにそれは私たち11歳の子どもたちにとって
初めての、非日常だった。
よっちゃん
その日からテレビも新聞も地震のニュース一色だった。
倒れた高速道路の橋脚、炎に包まれた長田区、家を失い避難する人々、毛布に包まれてなく人々。
「戦争みたいやな……。」
毎日毎日、テレビでは安否情報が流れた。
新聞にも毎日毎日、亡くなった人達の名前や年齢が溢れていた。
「1歳やて、可哀想に。
お母さんも一緒になくなっとってやな」
「お母さん、よっちゃんの名前あった?」
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