子どもを無償でかわいいと思わなければいけないか
約1年ぶりに会う友人の家でごはんを食べた。
その友人は結婚していて子どもが1人いる。子どもは小学3年生になって、おぼこい顔ではなくなり明らかな成長を感じた。
久しぶりに集まったので、会っていない間のことを報告しあったり、共通の知人の話をしたり、楽しい時間が過ぎる。人見知りしやすい自分は、はじめこそスロースタートだったものの、だんだんと気分が乗ってしっかり喋れるようになってきた。楽しい。友人に会って喋れるって。楽しい。
しかし、子どもにとってはそんな大人たちの話は少しも面白いものではなく、話している大人たちの間に入ってきたり、足元に潜り込んでちょっかいを出してきたりする。こちらも話をしながら片手間に子どもの相手をする。
片手間のお相手に満足するはずもない。ひとりっ子のその子は、お父さんお母さんの友達が家に来てくれる=たくさん遊んでもらえる、ちやほやしてもらえるってことなのだから。
その気持ちはわかる。
子どもがトランプを持ち出してきて、みんなで大富豪をした。1回、2回、3回……子どもは休憩を許してくれない。終わったらすぐに次のゲーム、終わったらすぐ次のゲーム。トランプをしながら大人たちはゲームに関係ない話をする。すると「話禁止!!!」と叫ぶ子ども。無視して話す。また子どもに注意される。大人もしばしゲームに集中して、子どもをおだてたり褒めそやしたりしてみる。
柄にもなく、ありきたりな言葉でありきたりな褒め方してる自分がおかしくなってきた。なーに合わせてんだろ。
そろそろ大人たちはトランプを休みたくなった。お菓子とお茶休憩にしようと子どもを言いくるめてなんとか休憩を得た。
やっと安心して話に没頭する。
子どもが真ん中で寝転んで体をぐねぐねさせ始めた。親である友人が、どうした?と聞くと「つまんない」と言う。
そりゃそうか。自分には関係ない話ばっかりで意味分かんないもんな、そうだよな、気持ちは分かるよ。
分かるけど。
そこで子どもに優しくできる自分はいない。
表面的にはニコニコ相手してたくさん遊んで、それで子どもが喜んでくれたりなついてくれたりしたら嬉しい。でも心の奥底では「いや、あんたのために集まったんじゃないから」と冷たく言い放ってやりたい真っ黒い気持ちがはち切れんばかりだ。
全然優しくなれない。
全然優しくなれない自分は非道なのかな。
「子ども」とか「赤ちゃん」という存在を許容できるようになったのはごく最近だ。続々と自分の友人に子どもができて、子どもの存在抜きには付き合い続けられなくなったという環境の変化によるところが大きい。
昔に比べれば、赤ちゃんや子どもをかわいいと思えるようになったし、子どもを育てている友人や世の中の人たちを心底すごいと尊敬できる。自分には考えられないことだから。日本の未来を育ててくれてありがとう、って思える。
他方で、友人の子どもをかわいがるのは、子どもの相手をすれば、友人が少しの間でも子どもから解放されて友人のためになるからだ。友人の子どもをかわいがるのは、子どもとも仲良くした方が友人の中での自分の株が上がるんじゃないかと思うからだ。
あくまでも友人と仲良くいたいから。好かれていたいから。
本当なら心置きなく友人と話して、遊びたい。
パートナーに預けてひとりで来ちゃいなよ!って言いたい。
友人に会えて楽しかったなという気持ちと、一瞬でも子どもに嫌な感情を抱いてしまったという気持ちがぐるぐるぐるぐるしながら布団に潜り込む。
子どもを無償でかわいいと思える自分になれる日は来るのかな。