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興福寺「涅槃会」と国宝館、槍の宝蔵院流
お釈迦さまの命日は、2月15日。
涅槃図の大きなお軸を本尊とする「涅槃会(ねはんえ)」が、寒空のもと、各地の寺々でしめやかに営まれる。
奈良・興福寺の涅槃会は毎年、新暦の同じ日付に催されている。わたしもお詣りがてら、興福寺のなかをぶらぶらしてきた。
◾️涅槃会
近世には「涅槃会」といえば興福寺のそれを指したくらい、よく知られた大行事であったという。現在は主要な伽藍から道路1本挟んだ「本坊」にて、静かに開催。大々的に周知されることもなく、「知る人ぞ知る」という感じである。
本坊は興福寺の実務がおこなわれるバックヤードで、通常は非公開。囲碁の棋聖戦で対局会場として使われたこともあるが、基本的にわれわれ一般人は涅槃会や、三蔵法師を偲ぶ3月5日の三蔵会のときくらいしか入ることが許されない。
中世はありそうな、本坊の古い四脚門。いつも前を通り過ぎていたが、初めてくぐった。
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本坊奥の北客殿では、臨終の場面を描く大きな涅槃図の前に、お釈迦さまの遺骨を象徴する舎利がしつらえられていた。舎利容器は厨子入りで、御正体(鏡面)の上に金銅・ガラス製の火焔宝珠をかたどったもの。こちらの慶長4年銘のものだろうか。華瓶には供花が生けられ、高坏には供物が山盛りに。
合掌後、しばし拝見した。
興福寺涅槃会 於・本坊
— 波乗房海風 (@hajyoubou) February 15, 2025
参拝は16時まで
本年のお振舞いはHAKKAISAN・あまさけ。 pic.twitter.com/ofOT1i5iCP
お詣りを終え、別室で甘酒のご接待にあずかった。砂糖不使用という八海山の甘酒で、これがまた、たい~へん甘い。舌の上にしばらく留まりつづける甘さで、ほっと、ひと息。
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◾️国宝館
すぐそこの興福寺国宝館にも寄ってみることにした。ずいぶんと久しぶりだ。
以前来たときは右回りの順路だったと記憶しているが、リニューアル後は左回りに変更されたよう。
順路こそ変われど、展示品は同じ顔触れ。ほぼ仏像で国宝11件・重文5点。いつ行っても一級品が観られ、ありがたい。
なかでも多くの人がめざすのは《阿修羅像》。東博であれだけの人に取り囲まれていた阿修羅を、ここではほとんど独り占めできてしまう。単眼鏡を取り出して、深遠を見つめる表情やよく残る彩色を観察。
阿修羅像を含む「八部衆」の立像は8体とも現存してはいるものの、《五部浄像》は上半身のみ。
とはいえ、7体がほぼ全身をとどめているのは、それだけで奇跡的ともいえる。興福寺は、幾度も火災に遭ってきたのだ。その苦難の歴史をより物語るみほとけたちの姿も、多々観ることができた。
満身創痍の運慶《木造仏頭(釈迦如来像頭部)》(鎌倉時代 重文)は、享保2年(1717)正月の大火で焼損した、西金堂の旧本尊。同じ堂内にあった阿修羅らとともに救い出された。脱活乾漆造で軽量な八部衆は運び出しやすかったが、木造で重たく大きな本作は間に合わず。西金堂は、現在も再建されていない。
もうひとりの頭部だけのほとけさま《銅造仏頭》(奈良時代 国宝)は、東金堂の旧本尊。柔和な笑みをたたえた白鳳仏で、昔からずっと、わたしのあこがれである。スッと伸びた眉、高い鼻、知性を感じさせる口許。ああ、うるわしい……何度も角度を変えて、拝見。
現在の東金堂は室町時代の再建で、現存。五重塔と横並びの、あのお堂だ。
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この仏頭は昭和12年(1937)、東金堂の台座下から発見された。室町時代・応永18年(1411)に、東金堂は火災に見舞われている。旧本尊は頭部のみ救い出されたものの、4年後に現在の東金堂が再建された際、本尊は新調され、焼け残った旧本尊の頭部は台座の下に納められたのだった。
「旧本尊の一部が、新本尊のどこかに取り込まれる」といった事例は、見ないわけではない。先日、目にしたのは「背中につけられた観音開きの扉を開けると、旧本尊の顔が現れる」という例だった。
興福寺東金堂の仏頭もまた、隠されたとか破却されたというよりかは、意図を持ってそこに安置されたのだろう。
応永の興福寺僧たちは、さすがにそのことを知っていたのであろうが、当初の意図どころか仏頭の存在そのものが、いつしか忘れ去られて数百年……そのあいだもずっと、暗がりのなかで、仏頭は興福寺を見守ってきたのである。
他にも《華原磬(かげんけい)》(奈良時代もしくは中国・唐時代 国宝)の巧緻きわまりない金工のわざ、《十大弟子立像のうち須菩提像》(奈良時代 国宝)の人間くさい人肌の存在感などに、魅かれるところがあった。
きっと、観るたびに、魅かれる作品、どこに魅かれるかなどは、変わっていくのだろう。常時変わらないラインナップには、そういった楽しみ方もあるのではと思う。
◾️槍の宝蔵院流
国宝館を観たあと、ちょいと所用(骨董屋)で、奈良国立博物館の前を通った。ここも、かつては興福寺の境内地であった。
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上の写真左の小径に進んでいくと、興福寺の塔頭・宝蔵院の跡地を示す石碑に出くわした。「槍は宝蔵院流」の、あの宝蔵院である。
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時代ものではおなじみの宝蔵院流。
宮本武蔵と対決し、忠臣蔵の俵星玄蕃(架空)、新撰組の谷三十郎(宝蔵院流だというのは創作?)、慶安の変の丸橋忠弥(実在)といった遣い手が知られる。石碑があるとは聞いていたが、ここだったのか。
宝蔵院といえば、ならまちの興善寺で、歴代院主の肖像画を拝見したばかり。なんとなく気になっていたから、よかった。
ついでなので、この碑を起点として、宝蔵院の痕跡を訪ねてみることにした。
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摩利支天石から、塀ひとつ越えれば猿沢池。胤栄がこの地での修練中に、水面に映る三日月を突き、十文字形の槍を着想したエピソードが知られている。下は月岡芳年《月百姿 つきの発明 宝蔵院》。
もう少し足を延ばせば、飛火野に至る。
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神鹿たちの楽園となっているこの地は、中村(萬屋)錦之助主演の東映映画『宮本武蔵 般若坂の決斗』(1962年)で、宮本武蔵が宝蔵院、浪人たちを相手に大立ち回りを演じた場所。
わたしはそのことを後から知ったが、いわれてみるとたしかに、飛火野である。そして同時に、あんなに人がわらわらといれば、鹿たちは森に逃げてしまうだろうな……とも(映画に鹿は出てこない)。
——なにかと気になる、宝蔵院流。
来たる4月19日には、春日大社で奉納演武がおこなわれるとのこと。ぜひ観たい!