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藤牧義夫と館林:7 藤牧義夫の「編集力」③ /館林市立第一資料館
(承前)
《隅田川絵巻》は、版でなく肉筆による一点ものの画巻。
「白描」の「風景画」ということで、ともすれば、岸辺を歩きながら巻紙に矢立を走らせサラサラと描きとめた「写生」「素描」「下絵」「習作」の類であろうかと、早合点してしまう人もありそうなものだけれど……作品をつぶさに観れば、まず描写が緻密であるし、線に迷いがないことに気づくだろう。しっかりと「決め」がなされた、本画の線になっている。
そしてなにより、絵巻の体裁をとりながら、伝統的な絵巻とはまったく異なった複雑な空間処理が駆使されている。
この絵巻、けっして単純明快なものではない。
「伝統的な絵巻」の空間処理とは、右から左へと横移動していくもの(例:円山応挙《淀川両岸図巻》)。一定の範囲に視点を定めたまま、水平にスライドさせていく。すやり霞をかけるなどして時間や場所をワープさせ、場面を転換することもある。
翻って《隅田川絵巻》の視点はというと、同じ絵巻のフォーマットを用いながら視点は一所に定まることなく、奥から手前へ、今度は手前から奥へと……ジェットコースターのように大きなうねりをもちながら、絵巻の天地のあちこちに移動していく。
第2巻冒頭のこちらでは、川べりの鉄工所が描かれる。ふむ、なるほどといったところで、筆づかいの緻密さや、白描で鉄骨の工場が描かれる新鮮さに驚かされはするものの、構図上の目を引く工夫は特段みられない。
ところが、左手で少しずつ、絵巻をさらに広げていくと……突如として現れるのだ。こんな巨大な物体が。
景色を手前から「近景」「中景」「遠景」と分けるとすれば、《隅田川絵巻》の世界では、視界にどアップの事物(近景。ここでは鉄の塊・白鬚橋)がいきなり現れ、急角度で中景を飛ばし、遠景へと急ぐようにして消失点を結んでいくという展開が頻出する。もう一例ばかり見てみよう。
向島側から、川を挟んで待乳山(まつちやま)を遠望する(1)。それから南側へと進んでいき(2)、いまの隅田公園周辺から急カーブになって、画面の上奥へぐいぐい(3)。「おいおいどうなるんだフェードアウトしてしまうぞ」と思っていたら……向島の岸が大写しになって現れ、描写は義夫(鑑賞者)のいるこちら側・向島の陸部へと切り替わるのだ(4)。
川沿いを歩き、見えたものを見えたままに正確にトレースするのみでは、この劇的ともいえる場面展開は実現されない。
もちろん、そのとおりに狂いなくなぞることも可能ほどの作画技術を、図案家のはしくれでもある義夫はじゅうぶんにもっていただろう。
それに飽き足らず、とらわれず、あくまで土台や前提として利用しながらモンタージュ写真のようにつなぎ合わせ、かつ接合点をなじませてあやふやにすることによって、義夫は「ありそうでない風景」を創出したのであった。
視点を上下にゆさぶり、メリハリをつけ、あるいは思いきって省いてしまい、数センチ先の予想すらつかないような画面の連続性をつくりあげる……この創意の跡を「編集」といわずして、なんと呼ぶだろうか。(つづく)