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南明寺の御開帳と、コスモスまつり 奈良・柳生

 大和路には、コスモスの名所といわれる場所がいくつかある。
 奈良阪の般若寺、斑鳩の法起寺、橿原の藤原宮跡……このあたりがまず挙げられようが、阪原のコスモス畑は初めて知った。

阪原のコスモス畑。あぜ道の両側に乱れ咲き

 柳生街道沿いといえば伝わりやすいだろうか。奈良市東部の山あい、剣豪の里・柳生へと至る途中に、コスモス畑が広がっているのだ。
 般若寺を辞したのち、再びバスに乗りこみ、今度は奈良阪を右折して40分ほど山道を進んだ。1日5本の運行ダイヤ。無事乗ることができ、ほっとした。

 阪原のコスモス畑を知るきっかけは、近隣の南明寺だった。「阪原コスモスまつりの期間に合わせて、10月20日(日)の13~16時のみ御開帳を執り行う」という情報が、その前週にXに流れてきたのである。ウェブ上での公式発表はなく、このツイートが頼みの綱。

 何年か前の真夏、同じ路線の手前「忍辱山(にんにくせん)」で下車し、円成寺から柳生の里まで半日かけて歩いたことがあった。南明寺は非公開で、拝観が叶わず。鎌倉期の本堂(重文)を外から撮らせてもらって、通過したのだった。
 いつかは堂内の平安仏群を拝観したいなと思いつづけていたところ、チャンスは、いきなりやってきた。

 バスのなかは、沿線にお住まいの方々、わたしと目的が共通するであろう方々に二分されていたようだった。運行本数・拝観時間とも限られているので、どうしてもこうなる。
  「阪原町」のバス停に停車すると、それらしき方々とわたしは同時に立ち上がった。下車するなり「どっちでしょうね?」と声をかけあい、皆で行ったり来たり。

中央の裾が広い屋根が南明寺

 バス通りから集落のほうへ入ってようやく、以前訪ねたときの記憶とつながった。
 門や高い塀・垣根で隔たれることなく、開け放たれた村のお堂。しかし、まことに堂々たる鎌倉建築である。きょうだけは、この内部に入ることが許される。

 拝観はすでに始まっており、5名ほどの方々がいらっしゃった。受付をすませる。参拝記念品として、仏壇を拭くかや織りの小ふきんと、手づくりのよもぎ餅をありがたく頂戴。
 まずはお詣り。須弥壇上では3体の如来坐像が、暗がりのなかに浮かび上がる。照明は最小限、自然光のもとで観るお姿は格別である。いずれも平安仏で、重文。
 中尊は御本尊《薬師如来坐像》(10世紀末〜11世紀初)。古様な趣のお像。南都らしい板光背で、その描文様や彩色、身体の漆箔の跡が味わい深い。
 右の《釈迦如来坐像》(11世紀後半)も板光背を背負うが、飛天1体ごとにパーツが細分化されためずらしいもの。

 左に控えるのは《阿弥陀如来坐像》(11世紀末〜12世紀初)。円満な定朝様の作風をみせる。
 上記のように、制作時期の異なる3体の如来像が横並びとなっている。さらに、左右の如来像は半丈六で像高140センチ前後だが、中尊の薬師如来像は84.2センチと小さい。
 もともとこの地域には、南都の僧が修行のため籠もっていた寺坊がいくつかあったという。「阿弥陀堂」という小字(あざ)も残っているとか。
 それら寺坊をまとめるかたちで現在の南明寺本堂が築かれ、それぞれに伝わった仏像が納められたのでは……とのことだった。
 ふだんは御本尊の四方を守っている《四天王立像》(10世紀初  奈良市指定文化財)は須弥壇から下ろされ、間近で拝見できた。表情の威厳に対して、簡略な表現の身体、小さなサイズ。思わず親しみがわく。このなかでは最古の作例である。

 近代の客仏という平安仏の半丈六《地蔵菩薩半跏像》、江戸初期の涅槃図、屋外の中世石塔も拝見。お堂を後にした。

 コスモスまつりの会場まで、南明寺から歩いて5分程度。地場産品の直売所、その名も「コスモス」を目印に曲がると、それらしき場所が見えてきた。

 コスモスのトンネル……とまではいかないけれど、あぜ道の両側をコスモスが囲むなかを抜けていくのは、爽快そのもの。光を受けて色とりどりにコスモスが咲き乱れるさまは、モネの絵のよう。

 こちとらおひとり様だが、いわずもがな、家族連れが多い。
 コスモスと無邪気に戯れる、よその娘さんたちを見て……親御さんがきょうのことを、『秋桜』のメロディーとともに思い起こす日がいつか来るのかもしれないなどと、余計な(ほんとうに余計な)想像をするのであった。

うす紅の秋桜が秋の日の……


 ——帰りのバスでも、行きと同じメンツがそろった。
 バスが動き出すと、みないっせいに南明寺のほうを見やった。お堂の屋根が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。
 秋の奈良でのよき思い出が、またひとつできた。




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