触れて、はじめてわかることがある:2

承前

 やきものをはじめ、工芸作品の多くは手に取ってみずから触れ、その質感や重みを認識することが可能だ。
 「可能だ」というか、そうしなければ、実像は捕捉できないに等しいのかもしれない。少なくとも、触覚で知っているのと知らないのとでは雲泥の差がある。
 うつわ屋の暖簾をくぐれば、「手に取って拝見してもよろしいでしょうか」とひと言断るのが礼儀というもので、それができるかどうかで、こちらを見る店主の目は変わってくる。
 専門店であればそうなるのだが、少し外れた店ともなると「触れないでください」と恥ずかし気もなく掲示する例を見かけなくもない。そういった店は、うつわ屋の風上にも置けぬ。

 やきものにも、御神木や『プラネテス』の巨大エンジンと同様に、間違いなく「なにか」が宿っていると思う。そしてその「なにか」は、えてして、触れて持ってみなければ伝わってこない。
 口惜しいのは、美術館クラスのものは、ガラスケース越しで視覚によってでしか認識ができないということ。これができるのは所蔵者と研究者と学芸員の特権で、正直のところ大変うらやましいし、どう引っくり返ってもとても敵わない。いいなあと思う。
 わたしの数少ない経験上でも、写真やガラスケース越しに見ていたものに触れることができた瞬間は、いつだって新鮮。「なにか」に触れるまでとそれからとでは、認識がまるで異なるのだ。
 瞳に映るうつわの色や文様、フォルム、質感は、大木でいう枝葉のようなもの。
 それでも、ガラスケースの前で切歯扼腕しながら、視覚で認識できる範囲の情報をもとに、イマジネーション(と、わずかばかりの経験)の助力によって触覚を含めた全体像を手繰り寄せることしか、いまのわたしにはできない。
 モノとわたしの距離感を縮める術としては、そのものでなくとも、素材や技法、背景に触れることが挙げられる。
 材となるものの種類や技法、作家のこころを知る。所縁の地を訪ねる。
 なかでもいちばんの近道は、業者さんやコレクターに類品を見せてもらうことだろう。こういった機会は極力逃さず、感覚を研ぎ澄ませていきたいものだ。

 主に触覚の話となったが、「重み」もまた大切。
 先日まで渋谷の戸栗美術館で開かれていた展覧会のテーマがおもしろい。その名も「古伊万里の重さを見る展覧会」。展示作品を計量してキャプションに載せているのである。

 物差しで測れる寸法とは異なり、重さというのは、たとえば同じ体重の人でも身長が違えば体格は変わってくるし、10㎏のバーベルと10㎏の子どもとでは重量感が違ってくるように、グラムの数字を来館者がどう受け取るか、具体的にイメージできるかは心もとないところ。展示においてはそこをどう解決したのかに、興味があった。会期を逃したのが惜しい。

 文章表現における難関にして、その筆者の技量を最もよくあらわすのが、この「重み」の描写ではないかと思っている。
 おおかたの文筆家は、そういった表現に首を突っ込まないよう、意識的に避けているような気すらしているのだが、ぱっと浮かぶところでは、向田邦子さんの文章には「持ち量り」という語彙がむしろ頻出していて興味深い。彼女の文章が今日も広く支持される所以のひとつとして、実感をともなった「重み」の描写の巧みさが指摘できるかもしれない。

 秋の夜長、「触覚」や「重み」に注目して美術や文学に親しむのもまた一興と思う。


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