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生誕110年 香月泰男展:1 /練馬区立美術館

 シベリア抑留を主題とした「シベリア」シリーズ。
 これを抜きにして、香月泰男は語れまい。香月を語るためには、どうしても「シベリア」に多くを割かざるをえないともいえよう。
 生誕110年を記念する本展も、「シベリア」を背骨として、その前段(若描きの類)、周辺(並行して描かれた、シリーズ外の類作)、下地(素描など)をなす作例を肉付けする構成をとっている。
 「シベリア」の描かれた順番と、絵のなかの出来事の順序は一致しない。復員後、折に触れて蘇ってきた断片的な記憶を、その都度、絵にしていったためである。
 本展では、制作された順番で「シベリア」シリーズ全点を展示。同時期の関連作品も適宜差しはさんでおり、香月の画業全体を俯瞰しようとする意図の強い展示内容となっている。

 マイナス35℃の極寒。先の見えない無期限の酷使。日に日に消耗する体力。ロシア兵の監視の目。そして、隣り合わせの死――画家自身が背負わされた不条理に次ぐ不条理が、張り詰めた絶望感となって、会場全体を支配する。
 「シベリア」を前にした誰もが、言葉を失う。この画家が幸運にも生還できたという事実だけが、わずかな救いだ。
 「シベリア」シリーズのそれぞれの作には香月自身による解説文が付されていて、絵とワンセットになっている。
 香月の絵はもともと、能弁というよりは多くを語らない余情を含んだものだが、このキャプションがあることによって、描かれたもの/描こうとしたことが明瞭となる。
 わたしもご多分に漏れず、まず絵を観てからキャプションを読んで答え合わせをしたのだけれど、香月の言葉でつづられる内容はいつでも、想像をはるかに上回る苛烈さをたたえていた。もう一度視線を向けると、そこにあるのはまったく違う絵だった。
 香月は絵においても、言葉においても鑑賞者の前に立ちはだかっていて、まったく隙がみえない。「返す言葉もない」状態なのである。

 画家はキャンバスのなかで、すべてを語るべきなのかもしれない。しかし、香月は絵に註釈のテキストを添え、言葉を介在させる方法をとった。
 それは画家である以前に、抑留を体験したひとりの者として、「伝わらない」ことをなによりも恐れたからだろう。
 戦争を経験された世代の方々には、トラウマゆえに口をつぐみ、黙して語らないスタンスをとる方もいらっしゃるが、香月の場合は積極的に描き、語る道を選んだのだった。そういった意味で、これは「絵以上のもの」ともいえる。
 「シベリア」を描くことは、戦後もなおフラッシュバックしてくる苦役の記憶を整理し、苦しみを乗りきる手段でもあったことだろう。
 また同時に、いまを生きていること、画材が満足に使え、目も手も自由に動き、絵を描けることができる対する喜びを確かめ、かみしめる過程でもあったのではと思われた。
 不条理きわまりない実体験と、それによって心に負った深い傷跡に根ざした表現だからこそ、「シベリア」シリーズは多くの人の胸を打つのだ。(つづく


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