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藤牧義夫と館林:5 藤牧義夫の「編集力」① /館林市立第一資料館
(承前)
巳之七の作に関しては、さらっと描かれた簡単な水墨のようなものを想像していた。展示にはその枠内の作あり、かちっと手のこんだ作ありで、描き分けの器用さに目をみはるものがあった。余技と片づけてしまうには、うますぎる。勉強や修業を積めば、絵で食っていくことも可能だったろう。
隣には兄・秀次の描いた絵も2点ほど出ていて、やはりなかなかの腕前。
遺伝的要素に環境的な要因が混じり合い、画家・藤牧義夫の素地が形成されていったであろうことがよく感じられた。
だが、父・巳之七が画家としての義夫に遺したものは、おそらくそれだけではなかった。
市井の一人物にすぎない父の事績を集成した『三岳全集』『三岳画集』。
はたから見れば「世紀の奇書」ともいうべきこの二冊を編んでいく過程そのものが、義夫の「編集力」を培ったのではないか。そして、この「編集力」もまた、義夫の画家としてのバックボーンをなした。
『三岳全集』『三岳画集』編纂のため、父に関するありとあらゆる事項を片っ端からかき集めた義夫。つい先年まで存命していた人物のことであるから、膨大な資料や情報が手元にそろったはずだ。
それらを取捨選択して整理し、筋道立てて並び替え、流れをつくり、ストーリーを組み上げ、メッセージを浮かび立たせる……そういった「編集」という行為に、14〜5歳の義夫少年はひとり黙々と没頭していたのである。
じっさいにできあがった本はそう系統立ったものでもなく、むしろあっちこっちに話が飛ぶ雑然とした内容ではある。
けれども、若いうちにこの「編集」という思考・行動の過程を無手勝流にであっても経験できたことじたいが、後々の創作活動にも影を落としたのではないかとわたしは考えている。
『三岳画集』の完成後まもなくして兄・秀次が亡くなり、義夫は東京へ働きに出ることとなる。時に15歳。図案工房で勤めながら、徐々に版画の道に入って、狭い範囲ではあるが名を上げていく。
その過程に見える「編集力」の片鱗について、次回は検討してみたい。(つづく)