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大和郡山・城下町さんぽ:2 聖と俗の街歩き

承前

 近鉄線の西側は西ノ京丘陵、その上に郡山城があり、東側は平地の城下町になっている。地形と町の切れ目を、近鉄が走っているわけだ。
 近鉄とJRに挟まれた約1キロ四方が城下町で、現在も区画に名残がみられる。

Googleマップより)

 右上に、羅城門とある。ここが平城京の南端で、平城宮から伸びる朱雀大路が終わり、そのままさらに南へ古代の官道「下ツ道」が続いていく。
 城下町の区画は、羅城門の南北・九条大路を除いて、奈良時代の区画を利用せずに構築されている。天正13年(1585)、豊臣秀長が郡山城に入るにあたって、このような町割りがつくられた。
 再来年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」をきっかけに秀長を知る人も多いと思われるが、郡山の町を歩いていると、秀長の名前を目にする機会は殊のほか多い。「大和大納言」は現在でもなお、身近な存在のようである。

 仔細に地図を見てみると、塩町、茶町、雑穀町、豆腐町、鍛冶町、紺屋町……といった、城下町らしい住所表示が現れる。
 そういった町名を持つ、昭和の香りが色濃く残る商店街のはずれに、洞泉寺町という地域がある。洞泉寺をはじめとする寺町だが、同時に、遊廓が軒を連ねた——いわゆる「赤線地帯」でもあった。

路地の突き当たりに、木造3階建の町家
遊廓「川本楼」こと川本家住宅(大正13年築)。「町家物語館」として公開されている

 格子戸をくぐり抜け、内部を見学させてもらった。
 遊廓としては昭和33年に廃業し、下宿屋に鞍替えしていた時期もあったようだが、遊廓の間取りや雰囲気はそのまま残っていた。
 職住一体だったという3階の3畳間の個室、かたや1階には、経営者一家が暮らす豪奢な大広間や坪庭が……目をそむけてはいけないが、カメラを向ける気にはなれなかった。けれど、一度は行ってみてほしい場所ではある。

 洞泉寺町から歩いて10分ほどの近場に、また別の赤線地帯・東岡町がある。
 木造3階建の遊廓建築は、数としてはこちらのほうが多く残っている。そのうちの1棟が、行政代執行により取り壊しとの情報をSNSで得たことも、大和郡山にやってきた理由のひとつだ。

10月13日撮影。この数日後、解体工事が始まった
廃墟マニアが不法侵入するなどして、問題になっていた。倒壊の危険もある

 木造建築の維持管理は、かんたんではない。ましてや3階建となると傷みやすく、歪みやすくもあるだろう。川本楼を市が整備するまでも、耐震補強などを含めて莫大な予算が注がれたという。
 また、この手の遊廓建築は川本楼を模してさかんに築かれたとみえ、周辺には他にも数棟が残っていたし、部材や仕上げをみると、川本楼のほうが明らかによい材を使った丁寧な仕事ではあった。
 残念だが、取り壊しは致し方ないのかなというのが、現地を見た感想である。


 ——城跡や赤線めぐりをした2週間後の10月26日、大和郡山の城下町を早くも再訪。翌日までの2日間、「市制70周年記念 城下町の寺社巡り」が催され、5寺・3社の境内と宝物が公開されていたからだ。こちらも、振り返ってみたい。
 洞泉寺町の旧・川本楼は、両隣を寺に囲まれている。右手の浄慶寺をまず訪ねた。

旧・川本楼に隣接する浄慶寺。手前の更地にも、数年前まで格子戸の遊廓跡があったという

 本尊は貞観仏の《阿弥陀如来坐像》(平安時代  重文)。角張った顔と身体をもち、側面の厚みが抑えられるなど一風変わったお像ながら、よく整った静謐さを併せ持つ。江戸後期の文政年間、住職の夢に現れたことを機に、當麻寺曼陀羅堂から迎えられたという。涅槃図も拝見。

 洞泉寺町の由来になった洞泉寺は、目と鼻の先に健在。その門前もまた、赤線の雰囲気を漂わせる。聖・俗、隣り合わせ。

写真奥・右手の門が洞泉寺、左手の朱の鳥居が源九郎稲荷神社

 豊臣秀長の建立という洞泉寺では、本尊《阿弥陀如来坐像》(鎌倉時代  重文)を拝見。「安阿弥様」と呼ばれる快慶様式の作品。同じく近隣の實相寺でも、平安仏の阿弥陀如来を拝見した。

 洞泉寺町は、城下町の南端にある。有事の際に出城・砦として使うために、寺が集められているのだという。

 さらに東・JR大和郡山駅方面に進み、薬園八幡神社へ。春日造の本殿(桃山時代  県指定文化財)がある。幣殿に上がらせてもらい参拝。

薬園八幡神社の幣殿

 幣殿内陣には金碧障壁画の《唐獅子図》(江戸時代  市指定文化財)。18世紀の町絵師によるもので、長押の三十六歌仙扁額も相まって、たいへん壮麗。


 すぐ隣の薬園寺も公開中。廃仏毀釈まで、寺社を隔てる塀はなかったのだろう。

 本堂(江戸時代  県指定文化財)に上がらせてもらって、驚いた。須弥壇の上では、本尊《薬師如来像》(平安時代)が、たいへん立派な宮殿(くうでん)に収まっていたのだ。

 宮殿の周囲には《十二神将立像》(江戸時代)、《不動明王像》(鎌倉時代)。重厚な信仰の空気が漂う。

 釋尊寺は、町の集会所といった趣。一木造の《地蔵菩薩立像》(平安時代 市指定文化財)に魅かれた。木から生まれたばかりといった風情の、古様なお像である。


 釋尊寺の前には、外堀の一部が残っている。釋尊寺の裏手は、JRの大和郡山駅。今回のゴールだ。

 ——大和郡山の街には、まわりきれていないエリアがまだある。
 筆者にとっては、最も身近な城下町だ。少しずつ、ほっつき歩いてみるとしたい。


 ※大和郡山の赤線地帯については、以下の探訪記に写真が豊富。



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