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木津川の古寺巡礼:3 浄瑠璃寺・上

承前

 岩船寺のご本尊は丈六の《阿弥陀如来坐像》(平安時代  重文)であり、周辺の石仏には阿弥陀さんが多い。
 当尾(とうの)の里には、浄土信仰の長い歴史がある。その中心こそが、浄瑠璃寺であった。

浄瑠璃寺へと至る道。参道というより、村の通用路といった趣。左奥にみえる小屋は、野菜や漬け物の無人販売所
無人販売所の向かい。かざらない、山村の風景

 堀辰雄の随筆「浄瑠璃寺の春」によって、浄瑠璃寺を知る人は多い。馬酔木(あしび)咲く古寺を、夫妻が訪ねる……ただそれだけといえば、それだけ。わたしも高校の現代文の授業で触れ、あこがれを強くしたものだ。

 堀は文章のなかで、2度も「平和」という語を使っている。昭和18年(1943)という発表年を思えば、この二文字がどれだけ重いか理解されよう。
 ついでにいうと、和辻哲郎は『古寺巡礼』のなかで、浄瑠璃寺での所感を「平和ないい心持ち」と言い表している。こちらは大正期の話。
 令和の「浄瑠璃寺の小春日和」も、やはり平和そのものだった。

茅葺き屋根の食事処「あ志び乃店」
堀夫妻が馬酔木の花を見た山門

 極楽浄土を模した庭園が広がる、浄瑠璃寺。大きな池を挟む形で、阿弥陀堂(平安時代  国宝)と丘の上の三重塔(平安時代  国宝)が向かい合って配置されている。

三重塔を背に、彼岸・西方浄土に見立てた西側の阿弥陀堂を望む
阿弥陀堂を背に、此岸・現世に見立てた東側の三重塔を望む。三重塔には、薬師如来が祀られている

 阿弥陀堂の内部には、阿弥陀さまがいらっしゃる……横並びに、9体も!
 極楽往生の9フェーズを造形化した「九体阿弥陀」は、末法の世・平安時代後期に多く造像された。
 現世でどれほど功徳を積んだかにより、来世において、どのフェーズからスタートできるかが決まるという。なんだか、勤め人の給与体系や人事評価制度を彷彿させるではないか……
 それはともかくとして、平安の九体阿弥陀がそろって現存するのは、もはやここだけ。あまつさえ阿弥陀堂すら健在で、その中へ入り、極楽浄土を体感できるのだ。

北側から濡れ縁をぐるりとまわり、左側の扉より入堂。「猫が入らぬよう、扉をしっかり閉めてください」とのこと
観音開きの扉が9組あり、それぞれの扉が内陣の九体阿弥陀に対応している

 9体が横並びの《阿弥陀如来坐像》(国宝)。中尊のみ高さ220センチ、左右各4体は140センチ前後となっている。これがさらに、須弥壇に乗る。衆生のわれわれは見下ろされる恰好である。

 よくいわれるとおり、阿弥陀如来像というものは、正面に坐したときに目線が合うよう、伏し目がちに造形されている。本像もご多分に洩れない。
 このあたりを踏まえた張り紙が、中尊の前の柱に掲示されていた。

正面に座して合掌し
静かに見あげたとき
最も美しい 佛の像がそこにある

 九体阿弥陀をある種の “群像” として捉え、端から端へとそぞろ歩きしながら空間をまるごと感じるのもまたよいものだが、張り紙がいうように、「最も美しい」角度は最初から決まっているのだ。張り紙の手順に愚直に従ってみると、その正しさが身をもって実感される。
 中尊はともかく、ほか8体の峻別は、よくよく観察しなければむずかしいかもしれない。薄暗い室内でもある。
 しかし、いったん気づけば、まったく違った顔にみえてくる。そして、そのなかの誰かしらに、親しみが湧いてくる。
 このこと自体が、なにか大事な教訓や真理を示しているようにも思われる。違いがわかるまで、粘り強く観たいものだ。


 ——西方の九体阿弥陀堂が、東方の薬師堂と池を挟んで向かい合う浄瑠璃寺の伽藍の構成は、藤原道長が造営し、老いて弥陀にすがる日々を送った法成寺(無量寿院)とも共通している。前述のとおり、このような寺院は、浄瑠璃寺しか残っていない。
 また、浄瑠璃寺の薬師堂である三重塔は平安後期にさかのぼる古塔だが、もとは洛中に立っており、鎌倉時代に移築されてきたものだ。

 こういった塔が、同時期の洛中では競うように築かれたというものの、いまとなっては浄瑠璃寺の三重塔が唯一の遺例。
 道長はじめ平安貴族の夢の跡が、洛外どころか京の南の端っこに、かろうじて残っているのだ。奇蹟で満たされた寺、それが浄瑠璃寺である。(つづく


阿弥陀堂を正面から。いまごろは、紅葉がきれいだろうなぁ


 ※堀辰雄「浄瑠璃寺の春」はこちら↓



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