大名茶人 織田有楽斎 /サントリー美術館
有楽斎こと織田長益(ながます)は、織田信長の13歳下の異母弟。
さしたる戦功はないものの、交渉事や和平工作に長けていたらしく、信長、豊臣秀吉、徳川家康の「三英傑」すべてのもとを渡り歩いて、戦国の世を生き抜いている。
千利休の高弟として茶の湯の歴史にもその名を残し、茶室「如庵」は国宝に指定。
本展は、展覧会名が示すように、この有楽斎というユニークな人物の実像に迫ることが第一の主眼となってはいるが、京都・正伝永源院の寺宝を紹介する「出開帳」的な内容もまた大きなテーマ。会場では、上のフロアは前者、下のフロアは後者の内容に、おおむね分けられていた。
正伝永源院は、有楽斎が再興した正伝院を前身のひとつとしており、有楽斎その人や、有楽斎直系の織田家にゆかりのある品々を多数所蔵。本展も、正伝永源院に残された資料を骨子としている。
ただし、茶道具の名品に関しては、もともと寺に入っていないものや、すでに寺を出たものが大半。他館や個人からの借用によって、多くが充当されていた。
なかでも、最も著名と思われるのが《大井戸茶碗 銘 有楽》(朝鮮王朝時代・16世紀 東京国立博物館 重美)。
有楽展と銘打つならば、これははずせないだろうし、リーフレットにも大きく起用されている。有楽がらみで展示されるのは、えらく久しぶりなのでは。
愛知・マスプロ美術館が所蔵する《青磁輪花茶碗 銘 鎹(かすがい)》 (南宋時代・13世紀)は、鎹が打たれる点までもが東博の《馬蝗絆》(重文)に類似する作例。
これとおぼしき茶碗が有楽斎の茶会で使われた記述があり、かたや本作には有楽斎の子孫の家から出た履歴があるとのことで、おそらくは、有楽斎ゆかりといえそうなものだ。清澄な釉色の美しい、砧青磁の名品である。
茶道具としては他にも、有楽斎が水指に見立てて進呈した平安時代の《緑釉四足壺》(慈照院 重文)が興味深かった。
こちらは「茶道具」といっていいのか、非常に怪しいところながら……茶室「如庵」もまた、茶人・有楽斎をしのばせる貴重な資料。
如庵は「名鉄」こと名古屋鉄道の所有のもと、愛知県犬山市に現存している。昭和45年までは、三井本家の北三井家が所有。大磯の別邸、その前は東京・六本木の本邸内にあった。本来は「不動産」のはずだが、流転また流転の茶席である。
東京・日本橋の三井記念美術館の展示室には、如庵のしつらえが写されている。また、正伝永源院の敷地内では、外観を含めて原寸大で復元。
如庵は、有楽斎を語るうえで、やはりはずせない。本展では、3DCGによるVR体験や、床に白線で原寸を示すことで、如庵を会場に出現させていたのだった。
上の写真・左手にある襖絵は、長谷川等伯の作。如庵とともに移築された旧正伝院の書院に、はめこまれているものだ。
濃彩の《蓮鷺図襖》は、有楽斎の肖像画を描いたとされる狩野山楽の作で、現在も正伝永源院の堂内を荘厳している。
引きの状態ではわかりづらいけれど、サギだけでなくツバメなどもおり、たいへんにぎやか。
それに、描きぶりは全体にゆるゆるな趣で、狩野派らしからぬところがある。
だが、それもなんだか悪くない。癒し系の金碧障壁画だった。
時代は下って、幕末の万能陶工・仁阿弥道八の作と伝わる《黒楽「正傳院」字茶碗》(江戸時代・19世紀 正伝永源院)。
「正」「傳」「院」の各文字が白抜きで表される。正伝院で接客などに使用された、数物の茶碗だろう。
手づくねの味わいを残しつつ、きわめて薄手に成形されている。掌に収めて茶を喫したら、さぞや心地がよいだろうなと思われた。
かなり高等な技術が使われているとみられ、作者の「伝」をとってもよいのでは……とすら思われた。
この茶碗の直後に出ていた本展最後の作品が、千利休の師・武野紹鷗の供養塔の拓本。
高さ6メートルの供養塔は、もとは有楽斎の手で正伝院に移されたものの、近代になってから寺外に流出。2021年、正伝永源院の境内へ帰還を果たした。
こうして、正伝永源院と織田有楽斎の幸福な新展開に言及して、展覧会もお開きとなるのであった。
めでたしめでたし、である。