食わず嫌いの刀剣 :3
(承前)
展示室では、急峻なカーブを描く鎌倉初期の太刀に、とくに魅せられた。
張りつめた力感が、一挙に解き放たれるそのときを待っているかのようである。いっぱいに引き絞られた弓や、膨らみきったつぼみにたとえることもできよう。
こういった日本刀の美しい反りは、実戦での実用性を追求した末に獲得されたもの。芸術的な表現とはまったく異質なものであることは、いうまでもない。
武器としての殺傷能力を高めるための工夫が、意図せずして美を生んだ。日本刀は、民藝思想が理想とする美しさを体現するものでもある。
刀剣の鑑賞が、ほかの分野の作品鑑賞と決定的に異なるのは、それ自体が殺傷能力をもった「危険な」ものだということであろう。
少しでも手許が狂えば……スッと、肉や骨が容易に断たれてしまうことを、われわれは知っている。展示室でガラス板を介すことで、その現実味が大幅に薄れようとも、刀そのものがもつ危険なにおいは消えることがない。危うさは、息をのむ緊迫感となって、鑑賞者を捉えるのだ。
わが身の危険を感じながら作品に相対するという体験じたい、他の分野では想像がしがたい。ぱっと思いついたのは、断崖に張りつきながら見上げる三佛寺の投入堂くらいだ。
危ないと知っていても魅かれてしまうのは、人の常であろう。というか、「危ないからこそ」魅かれるのかもしれない。
古代・中世の古刀には、こういった蠱惑が濃厚に感じられて、とりわけて魅かれるものがあったのだった。
これがもし、ガラス越しではなくじかに、みずからの手に取りながらの鑑賞であったのならば……きっと「憑りつかれる」という表現を使いたくなるほど、入れ込んでしまう。そういった人が後を絶たないのも、よくうなづけるのである。
背後から、それこそ刃を突き立てられるようにして、刀剣を観る。「この刀で、いったい何人が斬り伏せられてきたのか」といったことも、ちらついてくる。間違いなく、血なまぐさい歴史を抱えている。
そのはずなのに、目の前にある鍛えられた鋼の塊は、こんなも凛と澄みきっているのだ。なんという境地だろう。
「そういえば、行ったことがなかったな」「無料なら入ってみるか」と気楽に入館した、刀剣博物館。展示室を出る頃にはすっかり日本刀の虜になり、「開眼」していた。
馬には乗ってみよとはよく言ったもので、食えば嫌いも消えるもの……なのかもしれない。万事がそのようだともかぎらないが、できるならばそう信じたい。