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帳の開くとき
博物館では仏像を「観る」。お寺では仏さんに「会う」。
そんなふうに、違いを感じている。
博物館で展示される仏像は、信仰の現場から切り離され、歴史や造形といった文脈に位置づけなおされた存在だ。その空間においては史資料であり美術作品なので、手を合わせたり、お賽銭を上げたりする人はあまりいない。
展示では、より近くで、より明るく、より細部まで観察できるメリットがある。異なる角度から見ることができ、360度ぐるりと拝見できるような工夫も散見される。わたしも、その恩恵を大いに受けてきた。
けれども、お寺のお堂で仏さんに「会う」体験には、かなわない。
そのことを知っているからこそ、大盛況だった東博の薬師寺展には食指が動かなかったし、仏像の名品を集めた学術的には貴重な展覧会の観覧をためらい、逃したことあまただ。
薄暗いお堂の奥、狭小な厨子のなかで、仏さんは静かに来訪者を待っている。
その「待っている」感覚を強く覚えたのは、観心寺の国宝・如意輪観音像の前に立ったときだった。
数ある仏像のなかでも、人肌のぬくもりを色濃く感じさせる仏さん。
表情や仕草から「艶めかしい」としばしば評されるが、わたしの場合、右膝に添えるようにすっと垂らした腕の肉感に「生の気配」を感じたのであった。指で押したらふにっと返ってきそうな、張りのある肌である。生身(なまみ)の体とそう違わない。
それでいて、親しみやすいかというとそうでもなく、むしろ容易には近づきがたい。距離をとって仰ぎ見なければという受け取り方を、自然にしてしまう。
やはりここにおわすのは、われわれと同じ存在ではなく、もっと超越的ななにか――たしかに「仏」であるのだ。
仏像がこうして霊性をまとう理由として求められるのは、仏師の造形力の高さのみではあるまい。
礼拝の対象として信仰のただ中に身を置き、厨子に納められ、荘厳される。線香が焚かれる。そして、拝むためにやってきた人々が集う。これらの状態がそろい、混然一体となることで、神秘性を醸しているのではと思われた。
よく見通せて、はっきりくっきりとしていることを最上と考える。なにもかも明確に解明しようとする。
そんな世の風潮に反旗を翻して、あいまいさに明瞭の手をつけず、そこに身をゆだねるような時間を持ってみるのもよいのではないか。御開帳に参じるとき、いつもそんなことを思う。