我孫子訪問:2
(承前)
高台を下りてしばらく行くと、志賀直哉の邸宅跡があった。母屋はすでになく、別棟の書斎のみが残されていた。
六畳一間の、「庵」という表現が似合う小屋。濡れ縁のへなへなと湾曲した柱はいかにも頼りないが、解説板にあったように「趣味的な建築」ということなのだろう。そういえば、奈良の高畑町にある志賀邸も、遊び心のある小じゃれた邸宅だった。広めにとられたサンルームが素敵。住居から、暮らす者の顔が見えてくる。
沼までも近い。いまは幹線道路が邪魔して見えないが、志賀のいたころは沼が見渡せただろうし、執筆の手を止め、湖面や水鳥を見遣って目を休めたこともあったのだろう。
はす向かいほどの位置には「白樺文学館」がある。
前回触れたような別荘地としての我孫子の歴史を、白樺派と民藝を二本柱として紹介している小さな館だ。
企画展示室では、志賀の遺族から寄贈された資料が展示されていた。志賀自身が描いた油彩画は、寄贈にあたって初公開され話題となったもの。ほかにも未調査のものが多々あるという。李朝後期の染付壺は単に「染付壺」、来歴不明となっていたが、ミュージアムピースとまではいかないものの、なかなかよいものである。
柳、志賀、武者小路はいずれも大正12年までに我孫子から転居しているから、我孫子と白樺派の縁は期間にしてわずか6年ではある。
しかし、こうしてそれを記念・記録する施設があることは、市にとっては意義深いことだ。この館はもと私立の施設として発足し、のちに市に移管されていまに至る。
小旅行の最後に、手賀沼へ寄った。田沼意次が干拓させた「印旛沼・手賀沼」の手賀沼である。
穏やかなさざ波が湖面に広がり、湖畔の公園では市民が憩っている。ボート乗り場には昭和レトロ感。
わたしは湖畔がすきである。海と違って暴れないからか、水面すれすれまで人家が侵食しているさまはほほえましい。
まわりに誰もいないのをいいことにマスクをはずし、ベンチで居眠りをしてから駅に戻った。
柏で食したカシミール・カレーがまだ腹に残っていたので、駅そばの名品・唐揚げそばは見送り。またの機会とする。
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