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藤牧義夫と館林:8 藤牧義夫の「編集力」➃ /館林市立第一資料館
(承前)
《隅田川絵巻》の画面にみられる滑らかな連続性は、絵画的な構想力の産物というよりは、映像的な見せ方に近い。
そもそも絵巻じたい、手の「開く」動作によって視覚に変化をもたらしていく動的なメディアだ。
《隅田川絵巻》を両の手で開きながら、肩幅分ずつ観ていく。もしそんなことが体験できたら、作品のまた違った姿が……もとい「本来の」姿が観られるであろう。縮小版でいいので、絵巻の体裁を保った複製画が出てくれないものか。切望してやまない。
中世絵巻が日本のアニメーションの原点だとする言説はもはや定着した感があるが、近代にいくつかある絵巻の体裁をとったすぐれた作例も、フォーマット・見せ方の両面で基本的には中世絵巻を踏襲するものであった。
たとえば、《隅田川絵巻》の11年前に描かれた横山大観による巻子装の大作《生々流転》(東京国立近代美術館 重要文化財)は、山に煙る霧が一滴の雫となり、大河に注ぎ、蒸発してやがてまた雨になっていくまでを描いている。
《生々流転》が示すように、絵巻は時間の経過や物事の顛末といった「流れる」ものを数珠繋ぎに提示するに適した体裁である。この強みは前近代から変わらずに認識され、活用されてきた。
また《生々流転》にしても、前回例として挙げた応挙《淀川両岸図巻》にしても、「河川」がひとつの大きなテーマとなっている。
滔々と流れる大河に、過ぎ行く時間を仮託する。絵巻の横位置のフォーマットに、河川を落としこむ……どちらもきわめて自然で、蓋然性がある。ありていにいえば、絵巻と河川とは相性がよい。
藤牧義夫の《隅田川絵巻》も河川を主題とした絵巻には違いなく、画面は右から左へと展開していき、隅田川もそれに逆らわずに右から左へと流れていく。そこまでは、伝統的な絵巻と同じといえるだろう。
しかし、《隅田川絵巻》には、ないのだ。
季節も、時間も。
あからさまにそれとわかる風物詩は、まるで避けているかのように描かれない。絵のなかの風景が何時ごろなのかも、よくわからない。影法師すらなく、見当がつかないのだ。
つぶさに見ていけば、植生や風俗の描写から特定の季節を断定することも可能なのであろう。そういった考証的なおもしろみもたしかにあると思われる。
ここでいいたいのは、日本絵画の伝統的な形式である絵巻、河川という主題を選択しながら、川の流れとともに経過していく季節や時間を反映しようとしないことに本作の特徴が感じられるということである。(つづく)