ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント:3 /東京都美術館
(承前)
■抑えきれない創意 初期の素描
ヘレーネさんの集めたクレラー=ミュラー美術館の収蔵品によって、ゴッホの全画業をほぼカバーできる。
そのコレクションから編まれた本展も、これ以降は、各時代の作品を順に紹介する章立てとなっている。
なかでも今回は、初期の素描が充実。日曜美術館では、この点こそがじつは本展の最大の特徴であり、大きな挑戦だといっていた。
多くの画家の「初期の素描」には、学習の成果を忠実になぞろうとする生真面目さ、アカデミックさが色濃いもの。まだ駆け出し、修業時代なのだから、当たり前といえば当たり前だろう。
ところがゴッホの素描は、もう最初から「ほぼゴッホ」。もちろん、多くの画家と同様――いやそれ以上に、技術の不足は否めない。抜群に上手い、完成度が高いという意味ではないけれど……自分が対象として見定めたものを集中的に描きこむことに対して、まったく躊躇がない。素描の時点で、彼の表現はもうはじまっている気がした。
「素描」であっても、「写生」ではない。
目の前にあるもののすがた・かたちを規矩正しく、正確無比に写し取ろうという意図よりも、みずからの創意が前へ前へおのずから出てきてしまうような……そんな素描だった。
並木道の描かれた素描がある。
柳の老木の枝ぶりは、いくらなんでもこんなには暴れないだろうというくらいに、狂ったようにあちらこちらへと伸びている。まるで別の生命体のようだ。現実の景色とはだいぶ異なっているのではないだろうか。
キャプションには、ゴッホ自身の言葉が引かれていた。
そういわれると納得できる。
彼は、木そのものというよりは、木が人間のように見えることに興味を抱き、擬人化をするように並木道を描いていたのだった。
素描によって、若い画家はテクニックの土台を築いていく。ゴッホもまたそうであったが、それ以上にゴッホの素描は、自己の興趣を突き詰め、先鋭化させる大事な過程であったと思われる。
モチーフを呑み込んで、自分というフィルターで濾して、濾して……まったく違うものに変換する。どんな画家でもそうだけれど、ゴッホの場合は、とくに執念深いものを感じる。それは、最後まで貫かれていく。
ヘレーネさんは《レモンの籠と瓶》を観て、同じようにレモンを並べて再現を試みた。
案の定、絵と同じようには感じられなかったという。そうだろうなと思う。(つづく)