藤牧義夫と館林:15 ゆかりの地めぐり /館林市立第一資料館
(承前)
ちょいちょい小出しにしてきたように、館林市立第一資料館「藤牧義夫と館林」観覧の前後に、館林市街の義夫ゆかりの地をめぐってきた。
生家と、父・巳之七の没後に営んでいた日用雑貨店「藤牧文福堂」の跡地。右奥にみえる木々は、かの田山花袋が7歳から14歳までを過ごした場所である。藤牧家も田山家も、館林藩の元下級武士だった。
花袋の旧居は館林市立第二資料館の敷地内に移築されている。藤牧家も、おおむねこのような佇まいだったのだろう。
義夫の母校・館林市立第一小学校(当時は館林尋常高等小学校)。
大谷石の立派な門柱は、古いような、古くないような……義夫もこの門柱のあいだを通って通学したのだとしたら、おもしろいのだが。
いま調べなおしたところ、この門柱でなくとも、義夫が在籍した当時から存在しているものがあった。時計塔だ。
大正4年築で、義夫は大正6年入学。義夫もこの塔に見守られながら通学したことになる。
ホームページには、花袋や南画家の小室翠雲、宇宙飛行士の向井千秋さんなど名だたるOBに交じって、義夫の紹介も。
(ええと、「没す」でなく「失踪」ですね……)
――ともかくとして、「失踪」した義夫には、お墓があるとは聞いていた。小学校からも程近い法輪寺境内の藤牧家代々の墓に、その名が刻まれているというのだ。
義夫に関しては熱心に調べていらっしゃる方が何人かおり、ウェブには研究成果が落ちている。しかしながら、義夫の墓については詳しい情報がいっさいなく、捜索に骨が折れた。
ウェブで把握できるのは「朝日町の法輪寺」に墓があるということだけ。活字では『館林市史』の第7巻に詳しい言及がありながら、位置に関しては「山門の東側」という点のみ。正確な位置は記載されていない。
ここまで来たら、どうにかしてお墓参りがしたいもの。
墓域はそう広くないので、お寺の方のお手を煩わせるまでもない。そもそも、境内には人の気配がなく、猫しかいないではないか……自分たちの力で、探すのがよかろう。
思いのほか苦心惨憺した末に、ついに目指す墓碑に行き当たった。感慨もひとしおである。
よそのお宅の墓石を撮る、さらにはウェブに上げるのは少々気が引けるものだけれど……今後、同じく藤牧義夫巡礼をする方の一助になるかとも思い、こちらに上げさせていただくとしたい。合掌。(つづく)
※宇宙飛行士の母校になにかと縁がある当ページ