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〈新春スペシャル〉2024年の鑑賞「落ち穂拾い」:5

承前

■貝塚・孝恩寺の御開帳(9月28日)

 大阪府の貝塚市は、関西国際空港や和歌山県からも遠くない位置にある。中心部の貝塚駅周辺はその名のとおり海に面しているが、今回はローカル線「水間(みずま)鉄道」に乗り換え、内陸部へ。
 終点が「水間観音駅」。この路線は、寺社参拝のために敷設された鉄道なのだ。

水間観音駅(大正15年  登録有形文化財)。寺社参拝と鉄道敷設の関係については書籍がいくつか出ており、水間観音駅はしばしばその代表例として言及される

 水間寺(みずまでら)まで、ひなびた住宅街を徒歩10分。素朴な庶民信仰の寺で、大和古寺とはやや異なる趣。広々とした境内である。

天保期の三重塔、文化期の本堂(いずれも市指定文化財)。厄除けのほか、縁結びにご利益があるとか。後者は「お夏・清十郎」の逸話に由来し、ふたりの墓もある

 駅からどんどん離れ、さらに15分ほど歩いて、孝恩寺に到着。
  「釘無(くぎなし)堂」として知られる国宝の鎌倉建築・本堂をまずは拝見。

孝恩寺本堂。「釘を使わずに建てた」ということじたいは、古建築ではめずらしくない

 これほどのお堂があったということは、かつては大寺院で多くの堂宇が立ち並んだことだろう。もとは行基創建の観音寺という密教寺院で、その唯一の遺構。浄土宗の孝恩寺が明治期に引き継いだ。
 孝恩寺には、観音寺ほか周辺の古代寺院から引き継がれた平安時代(9〜12世紀)の仏像19軀、板絵1点が伝わっている。貝塚市内の国重文指定の仏像はすべてここにあり、収蔵庫でときおり公開されている。このときは9月中の土・日・祝日にかぎり、要予約で公開中だった。
 みやこぶりの作風はほぼなく、地方色あふれる、ある種エキゾチックなお像が並んでいた。こちらも、巨大な古代密教寺院の存在を偲ばせるに充分な遺物であった。

令和4年に「令和の大修理」が完了


■入江泰吉「大和し美し」 /入江泰吉記念奈良市写真美術館(9月29日)

 ならまち散歩の気ままな足どりで、高畑町まで流れ着いた。お隣の新薬師寺には何度も来ているが、写真美術館には初めて。

入江泰吉記念奈良市写真美術館。右奥は新薬師寺の本堂
瓦の大屋根にガラスを組み合わせ、宙に浮くような外観に。黒川紀章設計

 館の名称にも冠される入江泰吉の作品展「大和し美し」を拝見。「入江調」の入門編といった趣であると同時に、大和路周遊の手引きともなりうる内容。
 ここではいつでも、入江調の作品を鑑賞することができる。折に触れて、訪ねていきたいものだ。


■東大寺勧進所の御開帳(10月5日)

 大仏殿の西、戒壇院より手前にある勧進所は、毎年この日だけ門戸が開かれる。
 内部には3つのお堂があり、八幡殿では《僧形八幡神坐像》(鎌倉時代  国宝)、阿弥陀堂では《五劫思惟阿弥陀如来坐像》(鎌倉時代  重文)、公慶堂では《公慶上人坐像》(江戸時代  重文)の開扉がおこなわれ、参拝者は各堂を巡っていく。

左が公慶堂。門を入って右が阿弥陀堂、奥が八幡殿。背中側には、大仏殿がそびえる

 《五劫思惟仏》の作例としては、東大寺の北にある五劫院のお像(重文)がよく知られている。今回拝見した東大寺の《五劫思惟仏》はほぼ同時代の作で、五劫院像が手を前で組むのに対し、こちらは合掌している。たいへん愛らしい。

 神仏習合のありようを伝える《僧形八幡神像》(下の写真左)は、彩色の美麗さも相まって、まさしくいま、すぐそこに「いる」という気配を強く漂わせていた。
 明治の神仏分離で東大寺の鎮守社・手向山八幡宮を出たのちは流転の運命をたどったというが、そんな苦難の背景を感じさせない、厳かな存在感である。自然に、手を合わせる。

 《僧形八幡神像》にはモデルになった僧侶がきっといたに違いないのだろうが、より明確に特定の人物の肖像として制作されたのが《公慶上人坐像》(上の写真右)。
 こんにち、われわれが観ることのできる大仏殿や大仏さまの姿は、公慶の尽力なくしては存在しえなかった。
 大仏殿の落慶を見届けることなく、公慶は逝去してしまう。翌年、死を惜しむ人びとの発願によって制作されたのが、この生き写しの像だ。
 意志の強さを宿した、毅然としたまなざし——その先には、大仏殿がそびえている。公慶はいまも、東大寺をひっそりと見守っているのだ。

公慶堂から見た大仏殿。《公慶上人坐像》も、この方向を見つめている

 
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 今回の更新で、通算1,000件めの投稿になるとのこと。
 中断や小休止を挟みながら、よくぞ続いたもの……この場を借りて、みなさまに御礼申し上げます。

 (つづく)


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