触れて、はじめてわかることがある:1
山村暮鳥(1884~1924)に、「人間に与える詩」という作品がある。
著作権切れとのことで、ここに全文を紹介したい。
そこに太い根がある
これをわすれているからいけないのだ
腕のような枝をひっ裂き
葉っぱをふきちらし
頑丈な樹幹をへし曲げるような大風の時ですら
まっ暗な地べたの下で
ぐっと踏張っている根があると思えば何でもないのだ
それでいいのだ
そこに此の壮麗がある
樹木をみろ
大木をみろ
このどっしりとしたところはどうだ
大風に揺られ、わさわさ、みしりと音をたてるのは、大木の枝葉の部分だ。しかし、大木の大木たるゆえんは根っこにこそある。
つまるところ、ものごとの本質・核心は、表立って動きまわり、ちょこまかと騒ぎたてるような存在にではなくして、見えない・隠されたところにこそ籠もっているものなのだ……などといった解釈を、わたしは勝手にしている。
わたしたちにとっての幸運は、大木の地下を走る根を直接目にすることはできなくとも、それが隆起して地上に現れたものを見、あまつさえ手で触れすらできてしまうということだ。「わさわさみしり」とうるさい枝葉のほうには、たとえ背伸びしても触れることができないにもかかわらず、である(なんだか妙に暗示的な話だ)。
古いお寺や神社の境内で、しばしば大木に出合う。
多くは「御神木」のような形で木じたいが信仰の対象となっていて、相応に、ある種の聖性をまとっている。そんな木に会っている時間が、わたしはすきである。
とくに禁じられていないかぎりは大きな幹に近づいて、そっと掌を差し向け、触れる。すると、木の鼓動が、とくんとくんと伝わってくるのだ……といいのだが、樹木医でもないわたしにそんな能力はなく、幹をとおして返ってくる自分の脈動、呼吸を感じる程度である。
それでも、木から伝わり感じ取ることのできる「なにか」が同時にあるのもまた確かで、スピリチュアルな人のいう、木霊(木魂、こだま)の繰り出す気・波動・パワーといったものとは、きっとこのことなのではと思う。
アニメーションにもなったマンガ『プラネテス』に、これを彷彿とさせるシーンがある。
宇宙飛行士の主人公・ハチマキは、木星往還船の乗組員を目指し訓練を積んできたものの、精神的な理由から極度の不調に陥ってしまう。あらゆる手を尽くしてもスランプは打開できず、万策尽きたかと思われた頃、建造中の巨大エンジンを見学させてもらう機会に恵まれる。
見上げるように大きく、メタリックに輝くエンジンの前に立ったハチマキは、ほとんど無意識のうちに、その表面に手を伸ばしていた。
掌が触れたその瞬間、視覚的には電流のように表された「なにか」が腕を伝い、ハチマキを襲う。
こうしてハチマキは、スランプを乗り越えられるだけの闘志と使命感を取り戻すのだった……
大木を前にしたわたしもまた、その「なにか」の気配を感じたくて、「なにか」が自分のなかのまた別の「なにか」と化学反応を起こすことで、自分に変化をもたらしてくれるのではないかと期待をして……掌を幹にぴたりとつけるのである。
「人間に与える詩」を反芻し、『プラネテス』のあのシーンを思い出しながら。(つづく)