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ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント:9 /東京都美術館

承前

 ■「日本のゴッホ」?  長谷川利行から考える

 「日本のゴッホ」と呼ばれる画家が、何人かいる。
 放浪画家の山下清がそうであるし、「わだばゴッホになる」と決意した棟方志功の名も挙がるだろう。
 長谷川利行(はせかわとしゆき、1891~1940)もそのひとりだ。

 「日本の●●」のような、他人のイメージに椅りかからせて作家性を言い得ようとする二つ名には、本来ならば抵抗を覚える。
 けれども利行の場合は、ゴッホに通じる要素をことのほか多く具備していて、なるほどと思わせるところがある。

 まず、絵が売れない。ゆえに金がない。酒びたりのすさんだ日々の果てに、ゴッホは麦畑で自らを撃ち、利行はドヤ街を渡り歩いて三河島で行き倒れた。
 にもかかわらず、没後は一転して鰻登りの高評価。奇人変人ぶりを物語る数々の伝説的なエピソードとともに、その作品は現代人を魅了する……

 利行の作品には、「ああ、なるほど『日本のゴッホ』ね」と思わせるところはたしかにある。強い色彩、奔放なタッチ。画面に横溢する熱量の高さも、近いものがあろう。
 それでも、両者の作品上の共通性・類似性は「なんとなく」の域を出ないのではと、わたしなどは思う。
 ゴッホは絵の具をたっぷりと塗り込めた厚塗りだが、利行はキャンバスの地が見えるほどの薄塗りで、密度は低く、線にはかすれがみられる。また田園を愛し、一時都会を経ながらも田園に死したゴッホと、都会の喧騒にどっぷりと身を浸し、突っ伏した利行とでは、描くモチーフも異なる……「なんとなく」を抜けてクールダウンすれば、似ても似つかぬ絵描きじゃないか。
 その生涯やエピソード、そして「日本のゴッホ」というキャッチーなコピーに、みんながみんな、流されている。ゴッホのイメージに引っ張られることで、利行に対するイメージもまた「デカダン」「破滅」「孤高」となっていった側面があろう。

 そんなことに気づかされたのは、2018年に府中市美術館ほかで開催された利行の回顧展だった。
 なにを隠そう、わたし自身も従来のイメージに流されていて、むしろそこに魅力の一端を感じていたものだから、目から鱗が落ちた思いだった。
 学芸員さんのインタビュー記事を引用したい。

貧民街で暮らし、行き倒れの末に養育院で亡くなったという悲惨な人生のイメージが語られることが多いですが、その絵には明るい輝きと、絵を描くことが幸せという純粋な幸福感が溢れています。

https://serai.jp/event/314689

 図録にも同じように書かれており、企画の動機はここにあるのではと推察した。

 とまれ、そういうことなのである。
 利行の絵は、にぎやかで楽しげで、明るい。こんなに多くの色彩を使って、奔放自在な筆さばきと自由な形の把握でもって、描かれているのだ。
 クラクションの音が、陽気な音楽が、客寄せの声が、人いきれが、額縁を超えて、もれだしてくる。
 どうしてこれまで、そんな簡単なことに気がつかなかったのだろう……(つづく

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