「埼玉の日光」妻沼聖天山 :3
(承前)
国宝の本殿(歓喜院聖天堂)は、日光東照宮を髣髴とさせる絢爛豪華な社殿。その壮麗なこと、細部に余念のない高密度な飾りつけようは、本家にもひけをとらない。「埼玉の日光」の看板は伊達じゃない。
とはいえ、これはあまりに「日光」。断りなしに写真を見せれば、誰でも自信満々に日光と答えるだろう。
じっと見つめていれば、葵の御紋のひとつくらい見つけられるのでは?……などと、冗談半分に繁縟(はんじょく)な文様の森を血眼になってかき分けてみたが、ない。葵の御紋のあるべき箇所には「上がり藤」の丸紋が嵌めこまれている。実盛公の斎藤家の紋だ。
幕府の作事方棟梁を務めた家系の大工が妻沼の門前に居を構え、社殿の造営が実現したという。日光東照宮の造営に関わった家の者がつくったわけで、似るとか似せるとかいう以前に、きょうだい分にあたるということだ。
なぜ、あえてこのような建築様式が選択されたのか、謎は残るが……計り知れないほどの労力や時間、そして資金を要する大事業であったことだけは間違いない。
将軍家や大名家の財力が注入されていてしかるべきと思いきや、「当時の庶民・農民が永年に渉って浄財を出しつづけ、四十四年かかって完成した」とパンフレットにはある。
堂宇の建立と修復に湯水のように資金を拠出した綱吉(と桂昌院)の時代は遠い昔、この当時の幕府は倹約第一、「建築の許可は出してもカネは出さない」姿勢であった。
聞けばこの社殿、関八州を勧進して廻り、資金を集めてできたものという。それでこの出来なのだから、恐れ入ってしまう。庶民から篤い信仰を集める聖天さんらしい逸話ともいえよう。
もちろん多少の脚色もあって、その「庶民」とやらのなかには大店を構える豪商や、吉原のスポンサーなども多分に含まれていたことだろう。
それでも、この逸話を知ったうえでもう一度社殿を観れば、きらびやかなパーツのひとつひとつに、市井の人々の強い願いがこめられているように思えてくる。
江戸っ子が「日光はちと遠いけど、熊谷くらいなら行ってみるか!」などと、徒党を組んで物見遊山に出る……そんな光景も浮かんでくる。
無礼千万な物言いで恐縮だが、いかにもカネにものをいわせたような面のくせをして、そのじつ、もっと素朴なパワーの結集によって成り立っていたものであった――妻沼聖天山の本殿は、なんとも奥ゆかしい建物なのである。(ちょっとだけつづく)