緋色の研究 朝ドラ「スカーレット」:4
(承前)
喜美子が自覚的に芸術表現に取り組んでいく背景には、大阪時代に知己を得た芸術家・ジョージ富士川(西川貴教)からの精神的影響がある。ジョージ富士川のモデルは経歴や挙動から明らかなように岡本太郎で、「芸術は爆発だ」に代わるフレーズは「自由は、不自由や」。なんとも含蓄のある言葉だ。
喜美子は八郎との一件の最中にも、冷徹ともとれるほどに仕事への情熱を燃やし、世間からの評価も得て、斯界の大家となっていく。
数年後には、八郎とのあいだの一人息子・武志(伊藤健太郎)も陶芸家としての道を歩みはじめた。しかし、サラブレッドの武志が天賦の才を発揮しはじめ、順風満帆と思われた矢先に●●●●●●●してしまうという、またしてもえげつない「不自由」に喜美子は見舞われてしまう。
それでもなお、さらなる高みを目指して、喜美子は新たな技法や作風に挑戦しつづけた。幼き日に古窯址で拾った陶片のあざやかな緋色=スカーレットを再現することが、彼女の究極の目標だった。
すでに一定の評価を確立していても挑戦をやめず、窯焚きは失敗続き。そのうえ、プライベートでとてつもない悲しみすら背負っているのに、感情を表には出さず意に介さないようすの喜美子。その淡々とした姿はかえって鬼気迫るものを感じさせ、おぞましいまでである。そんな芸術家の性(さが)を、戸田恵梨香は見事に演じていた。
芸術において、彼女は確かに「自由」だった。ところが、現実世界において、「自由」の行使には相応の代償がともなう。喜美子のような、躊躇も容赦もない並外れた行使であるのならばなおさらである。
喜美子を次々と襲う困難は、ジョージ富士川のいう「不自由」に他ならない。喜美子は「自由」も「不自由」も等しく運命として受け容れながら、全部背負いこんで、「自由」の境地に全精力を注いでいく。若き日に授けられたジョージ富士川の言葉は、多分に暗示的なものであった。
劇中では、女性が展覧会に出品することに対する抵抗・やっかみが描かれた場面もたしかにあるにはあるのだが、じつのところ、喜美子の負った「不自由」のほとんどは、性別の如何に関係なく起こりうる話である。八郎と喜美子の性別を逆にしても成り立つ、とすら思われるのだ。
だからこそ「スカーレット」を「女性のお仕事もの」としてではなく、「ひとりの芸術家の物語」としてとらえることに、わたしはなんのためらいもないのだ。(まだつづく)
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