春日若宮おん祭:2 遷幸の儀と暁祭
(承前)
「春日若宮おん祭」の第2日・12月16日午後には、春日大社の本殿と若宮でいくつかの神事がおこなわれ、今年のおん祭の無事が祈願された。
この日、わたしはフルタイムで勤務したのち帰宅、22時過ぎに再度出発して春日へ向かった。翌日は有休を取得。
出直しも有休も、17日の午前0時より執り行われる「遷幸の儀」を見に行くためだ。この儀式に関しては、おん祭のページから解説を引かせていただくとしたい。
「神秘を、目の当たりにしてみたい」
そんな思いが、わたしを駆り立てた。
夜の街を抜けて、春日の参道を往く。照明はないが、真っ暗闇というわけでもない。月明かりが、常よりもいっそうに鋭いものと感じられた。
足もとはおぼつかなく、一度だけ側溝に転落してしまったけれど(!)、それさえ気をつければ、他に苦はない。
やわらかく深い夜空を愉しみながら、「夜とは、こんなにも明るいのだ」といったことを考えつつ、歩いた。
薄明かりのなかでも、近くを誰かが歩いていることくらいはわかる。この時間、この場所にいるということは、目的は同じ。彼らは、遷幸の儀に立ち会おうと歩みを進めている同志といえよう。
同じペースで歩く人たちの顔が初めて確認できたのは、御旅所の前。竹矢来の内側では若宮神を迎える準備が万端に整えられ、みな足をとめて見入っていた。
ここ御旅所から若宮まで、東へまっすぐ約1キロ。若宮めざして、ふたたび闇に紛れるも……国宝殿や駐車場があるあたりで、長蛇の列が出現。そこから先、二之鳥居の先にはもう、神職と限られた縁者しか入ることができないようになっていた。
参道の両端・側溝の際にまっすぐ連なる列に加わると、スマホやライトの点灯はNG。話し声は、自然にひそひそ声となる。さらに立ちっぱなしにもなるゆえ、肌寒さがつのっていく。
こうして、神様が目の前を通るそのときを、今か今かと待ちわびるのであった。
23時50分。提灯を手にした神職たちが二之鳥居をくぐり、坂を上っていく。そのさまが遠くに小さく見え、胸が高鳴った。自販機の照明まで切られた徹底した暗がりのなかでは、提灯のわずかな灯火ですら、離れていてもよく目立ったのだ。
12月17日午前0時0分。遷幸の儀が始まると、雅楽器の音色や太鼓の音が、若宮の方角からかすかに洩れてきた。そしてまもなく、電線に強風が吹きつけたときのような、あるいは口笛にも似たふしぎな音が、夜風に乗って聞こえてくるのであった。
これこそが「警蹕(みさき)の声」。これから神様がお出ましになることを警告する声色で、いちおう文字では「ヲー、ヲー」と表されるものの、じっさいに耳にするそれは、なんとも形容しがたい畏怖を感じさせるものであった。とても、怖い。
若宮の社殿を出た若宮神は、里へ下っていく。楽器の音、警蹕の声とも、少しづつ大きくなっていった。これはたいへんだ。身体が、ガタガタ震えだしそうだった。
ようやく、神列の先頭が見えてきた。
ふたつの炎が、静かに移動している。
提灯や松明が掲げられているのであれば、それを持つ人間の歩くリズムに合わせて、炎もまた滑らかに移動していくであろう。ところが先陣を切るこのふたつの炎は、もっとイレギュラーな動き。
「いったい、どうなっているんだろう」と目を凝らしていると……2メートル以上はありそうな巨大な松明を、白丁の神職が引きずり、その燃えさかる尾が、土の上に火の粉を残していくのであった。火の粉の軌跡は、まるで天の川。美しい。
こうして浄められた道の上を、これから若宮神が通っていくのだ。
松明に続いて、神職たちがわっと押し寄せてきた。
われわれ見学者は参道の両側、側溝すれすれで待機することを求められていたが、そうしなければ触れてしまうくらい目の前を、神の行列が通過していくのであった。
松明の熱さ、雅楽器の響き、「ヲー、ヲー」の警蹕の声……すべてが、手を伸ばせば届く距離で繰り広げられるのみならず、大量のお香が焚かれ、嗅覚の面でも刺激を受けつづけた。
それは、清らかで雅やかというよりは、荒ぶる、土俗的で原初的な信仰のあり方を強く感じさせるものなのであった。
なかでも、榊の枝を手に持った白装束の神職たちがラグビーのモールのように何十人も群がり、「ヲー、ヲー」と声を上げながら移動していくさまは、古代人の信仰形態を最も色濃く思わせた。
この「モール」の中心に、若宮神はいるとされる。いや、確実にいた。そうとしか、思えなかった……たいへんなものを、目の当たりにしてしまった。
若宮の社殿を出て、行列とともに山を下りた若宮神は、御旅所に入る。
わたしたちも、行列の後ろに加わって参道を戻り、御旅所へ。ここでは午前1時から2時間ほどかけて「暁祭」が営まれる。
いまふうにいえば、ウェルカムドリンク、豪華なモーニングに歌舞音曲のおもてなし……といったところであろうか。
暁祭では、神職のきびきびとした動き、巫女の優美な舞いぶりを、じーっと目で追った。「じーっと」というか「ぼーっと」になってしまいがちだったのは、一日の疲労、寒さによる縮こまり、いつもは寝ている時間帯ゆえの眠気……というのが正直あったのだが、それ以上に、遷幸の儀のあの行列の強烈な印象が、わたしのなかでずっとこだましていたことが大きい。
いやはやほんとうに、強烈としかいいようのない体験であった。(つづく)
※おん祭の見学にあたっては、次のサイトが非常に参考になった。