信貴山縁起絵巻 特別公開「延喜加持の巻」:2 /朝護孫子寺
(承前)
国宝《信貴山縁起絵巻》(平安時代)は3巻からなり、朝護孫子寺の霊宝館では常時、複製を展示。毎年秋、正倉院展とほぼ同時期に1巻が本物に差し替わって公開されている。
今年は第2巻「延喜加持の巻」の公開。剣の護法童子が天を翔けるシーンで有名な巻である。
《信貴山縁起絵巻》は、信貴山中興の祖・命蓮(みょうれん)にまつわる霊験譚を絵画化したもので、3巻それぞれ異なった逸話を取り上げる。「延喜加持の巻」は、おおむね次のような筋。
ウェブでは適切な図版が引用できず恐縮だが、魅力的に感じた点を述べたい。
まず、命蓮のふしぎな提言が、宮中へ伝えられるシーン。公卿たちの表情はあまりよく見えないものの、半信半疑、いぶかしんでいるようにもみえる。どん引き公卿。
次のシーンでは、宮中のまったく同じ場所を同じアングルから捉えているが、公卿が1人だけ。
同じ舞台装置を使いまわしての、このあたりの場面転換はたいへん秀逸だと感じたのだが、仕掛けはさらにある。
右向きに座った公卿の背後に、雲と法輪に乗った護法童子がヌッと現れるのである。まさしく「志村! 後ろ後ろ!」というやつ……
護法童子が駆けてくる有名なシーンは、この直後。すなわち、ヌッと現れた童子が信貴山からやってくるさまを、巻き戻し再生しているのだ。
ふたつのシーンに共通するのは、観る者の視線移動に逆らう描写をあえて混ぜ込む、「出会い頭」ともいえる手法。絵巻を右から左へ順繰りに開いていったとき、「ヌッ」の視覚効果はさらに高まる。
こういった点は先学が幾度も指摘してきたことだが、実物に接すると、さらに痛感できた。絵巻を鑑賞するときは、できるならば左側の視界を遮りながら、少しずつ観ていきたいものだ。
少し話は戻るが、宮中のふたつのシーンでは、庭の竹にも注目したい。
竹は、最初の場面ではまっすぐ立っているいっぽう、次の場面では右側に大きくしなっている。そのすぐ上には、画面左側からやってきた護法童子が描かれている。
童子は風に乗って、あるいは風を巻き起こしつつ、信貴山からやってきた。その勢いと速度を、竹のしなりが表している。
間違い探しのような細かな描写にも意味があり、物語が隠れている——このような点に関連して、わたしの気づきというか、妄想に近いことを、試みに述べてみるとしたい。
絵巻の信貴山の場面では、高い峯が描かれるのではなく、同じくらいの高さの複数の山が、ぽこぽこと配される。
これは単に、信貴山の山深さを示す抽象的・記号的な表現と思い込んでいたのだが……本堂の懸造りの舞台から山並みを眺めていて「どうも、似ているぞ」と、少なくともわたしのなかでは、多分につながるものがあったのだ。
絵師が信貴山を実見し、現地の地形を意識して描いたかどうかはわからないけれど、もしかしたら、その可能性もあるのかもしれない。
本展ではスペースの都合上、冒頭と末尾の場面だけ、観ることは叶わなかった。観られた範囲の最後は、帝の平癒後、命蓮を訪ねて山中を往く公卿様御一行。ほっとして穏やか、なごやかな雰囲気の皆々様である。このあと、帝からの褒美を命蓮に固辞されるとはつゆ知らず……
木の葉は、紅く色づいている。絵巻を観ている現在と同じ季節が、絵巻のなかに巡ってきたという点もまた、感慨深い。めでたし、めでたし……
《信貴山縁起絵巻》のほかにも、奈良博の展覧会(2016年)に一緒に出ていた寺宝の数々が、霊宝館では所狭しと並べられていた。キャプションは、奈良博の展示時のものを再利用(奈良の寺あるある)。
駆け足で振り返ると……命蓮の伝説を思わずにはいられない金銅の鉄鉢や、楠木正成所用と伝わる兜や鞍、旗、毘沙門天坐像。「信貴山型」と呼ばれる金銅水瓶の本歌などなど。
さらに、奈良博で観た覚えのないものとして、大正10年の聖徳太子1300年遠忌に合わせて制作された《太子御一代絵伝》を挙げておきたい。
兵庫・鶴林寺所蔵の高名な太子絵伝の掛幅の模写に、新たに制作した信貴山の太子伝説を描く1幅が足されている。この1幅分には剣の護法童子や空飛ぶ米俵が登場するなど、信貴山縁起を踏まえて図像が引用されている。おもしろい作例だ。
——霊宝館には先客がおらず、後ろから誰も入ってこなかった。国宝絵巻をはじめとする寺宝をひとりじめできた、ぜいたくな時間であった。
館を出る頃、雨は完全にあがっていた。
信貴山の境内は、まだまだ広い。山上には、松永久秀が最後を遂げた信貴山城の跡も残っているという。天気のよいときに、また来てみたい。